第二のネックから西側に分かれた台地は、その先端が更にいくつもの舌状台地に分かれているが、その最南端に、東西に横たわる細長い台地がある。これが大椎城址の中核をなす部分であるが、その基部に当たる地点でふたたびくびれ、「第三のネック」をなしている。旧道はそのまま台地の東側面を急降下して、村田川によって開析された沖積地へと降り、大椎部落へと達している。
この第二のネックと第三のネックとに挾まれた台地は、複雑な地形をなし、西側に二つの、東側には三つの舌状台地が八ツ手の葉のようにのびている。その基部には大椎廃寺址があり、東側にのびた舌状台地の先端には、「城谷台」、「御堂崎」などの字名がつけられ、その頂上には毘沙門天のほこらがあったり、その突出部には物見台状の遺構が残されている。
このように、第一のネックから第三のネックまで、いずれからを大椎城の輪郭とするか、その観点によって、この城址の規模は全く異なってくる。ただ、現存する城郭遺構や、「ねごや部落」の展開の様相からみて、この大椎城の中核部は第三のネックから東西に横たわる舌状台地全体であることだけは確かである。