Ⅱ 大椎城中核部の輪郭

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 大椎城の中核部は、旧山武郡土気本郷町大字大椎にあって、「西要」、「東要」及び「要害台」(または城山)の全域にわたっている。それは南北二五〇~三〇〇メートル、東西約六百メートルの細長い舌状台地で、その自然地形が巧みに利用されている。この台地の東西南北いずれの側面も、人工的に切り落され、急峻な断崖をなし、その東北端だけが、第三のネックをへだてて北方に連なる平坦な台地部へと通じている。この台地の西側から南側にかけての裾部には、台地の縁辺を削平して、腰ぐるわ状の敷地が二~三段にめぐらされ、その上に、現在四〇軒ばかりの人家が散在している。この様相からみて、それが中世における「ねごや部落」の名残りであることはほぼ間違いないであろう。
 台地上の輪郭については、大きくみて二つの部分に分けられる。一つは、やや長方形に近い舌状台地を、現存する三本の堀割りによって、四つの「くるわ」(曲輪)に仕切られた部分で、「西要」と「東要」の西半分に当たる。そこで台地は、北と南から深く刻まれた小支谷によって、一端、急にくびれ、幅二メートル、長さ二五メートルほどのやせ尾根によってわずかに連結している。このくびれの過半は自然地形によるもので、その北側の裾部には「星の井」と呼ばれる湧水点があり、南側の裾にある「天井ない」という屋号の家の側面にも、豊富な湧水洞がある。
 このくびれ部を挾んで、東側の台地は独立して別個の丘陵をなし、小字では「東要」のうちに含まれながら、別に「要害台」または「城山」という。この二つの部分は、地形的にも、遺構の形態からみても、全く性格を異にしている。
 とりあえずは、現存する堀割りをもとにして、台地の西端から順に、「西要」を第Ⅰ曲輪(ぐるわ)と第Ⅱ曲輪に、「東要」の西半を第Ⅲ曲輪と第Ⅳ曲輪に、そして「東要」の東半である「要害台」を第Ⅴ曲輪と名づけ、順次、その遺構の状態を概観してみる(二―一九〇図)。

2―190図 大椎城址遺構部概念図