(南北七〇~二一五メートル、東西一一〇メートル、ほぼ五角形、面積約七千平方メートル、標高約八〇メートル、A・B二郭に分かれる)
第Ⅲ曲輪との間の堀(三の堀)は、上縁の幅七~八メートル、深さ三~四メートルの薬研堀で、南北に向って凹字形に折りひずんでいる。この曲輪の北側縁辺も屏風折りに、西側及び東側は凹字形に屈折している。
なお、この曲輪も踏査とボーリングの結果、ほぼ中央部に、S字形に屈折した堀切りの跡が南北に走り、その西側が、その堀切りに沿って帯状に隆起しており、後世に埋め戻したものと判明した。これによって東西二つの曲輪(A)・(B)に分割されていたとすると、Ⅳ―(A)は南北四五~七〇メートル、東西五〇~七〇メートルの五角形を呈し、面積は約三千七百平方メートル、Ⅳ―(B)は南北三〇~五〇メートル、東西五〇メートルの台形をなし、面積は約二千平方メートルとなる。
さて、このⅣ―(B)の東側縁辺には、土塁状の遺構は何ら認められなかったが、上縁より四メートルほど下の側面に幅一〇メートル、長さ三〇メートルほどのカギ形に迂回した物見台(J)がつくられ、その東側縁辺に土塁状の遺構が残存している。この物見台(J)の側面を切り開いて「第四のネック」に急傾斜で下降する通路があるが、これは、その道幅や切り通しの状態から、最近の工作と思われる。
しかし、その道がやせ尾根にさしかかる部分が腰曲輪状に幅広くなっており、その東北隅の曲り角に、直径五~六メートル、高さ一・五メートルほどの円墳状の遺構(K)がある。これは明らかに通路の方向をわざわざ屈折させるための土塁であり、虎口の「桝形」遺構の一部に違いない。