(「要害台」)
この曲輪は、一つの独立した台地で、裾部では南北約二百メートル、東西約一二〇メートルの広がりがあるが、頂上平坦部では、幅二〇~三〇メートル、長さ百メートルの、南北にのびる長方形を呈し、面積はわずかに二千三百平方メートルを測るにすぎない。
この縁辺は、東側では屏風折れに、西側では凹字形にひずんでおり、その西側縁辺に沿って幅二メートル、高さ〇・五~一メートル、長さ九〇メートルに及ぶ土塁が南北に走っている。地元の古老の話によると、その昔、この台上には「流鏑馬(やぶさめ)」を行った馬場跡があり、最近では大木戸町の八幡神社における毎春一月二十五日の「おびしや祭」のとき、吉凶占いの「通し矢」を行う的場になっているという。
しかし、この土塁は、そのまま断続しつつ北にのび、馬頭観音堂の周辺をコの字に囲んでいる土塁と連なるところから、その周辺、すなわち「第三のネック」こそ、大椎城中核部の第一の虎口であり、それらの土塁こそ、外敵の進入を規制・誘導するための、一種の「桝形」遺構と思われる。
しかも、この「要害台」の頂上部は、標高九〇~九一メートルで大椎城中郭部ではもっとも高く、第Ⅰ曲輪から第Ⅳ曲輪までは、ほぼ一律に標高七八~八一メートルであるから、ちょうど一〇メートルの比高をもつ。実際に、その頂上南端及び数メートル下の中腹にある南側面から西側面にかけてカギ状にめぐる腰曲輪(ナ)に立ってみると、第Ⅰ曲輪南西端の物見台(D)から第Ⅳ曲輪東南端の物見台(J)までと、南裾に展開する「ねごや部落」のほぼ全体が、一望のもとに見渡すことができるのである。