(第Ⅰ~第Ⅳ曲輪)
いずれも屏風折りにひずんでおり、標高約八〇メートルの上縁から標高五〇メートルの中腹にかけて、人為的に切り落され、急峻な傾斜面を形成している。その中間(標高七五~七〇メートルの間)に、しかも、第Ⅰ曲輪、(A)・(B)間の堀、一の堀、二の堀及び三の堀の北端部に、それぞれ幅五~八メートル、長さ二〇~三〇メートルのテラス状の遺構(F・G・H・I)が設けられている。これらは、相互に見通せる位置にあり、城の北方の監視とその合図伝達のための「物見」の機能をもっている。なお、その物見とつながるそれぞれの堀割りは、それらの南側にある腰曲輪(イ、ウ、カ)に通ずる堀底道にもなっている。
しかも、一の堀と二の堀の堀底道から、それぞれの物見台(G・H)を通って、そのまま北側の谷底に向って角状に突出したやせ尾根があり、その上の細い道が、くねくね折り曲げられ、しかも、その中途で二カ所ばかり堀切りで遮断されている。恐らくこの道が、この城の「搦(から)め手」であろう。
なお、この北側の物見から北を望めば、急峻な谷をへだてて、「後沢」、「城谷」及び「御堂崎」という高台があり、それらの先端部には、平坦な曲輪状のテラスがあり、物見や狼煙(のろし)台としては恰好の場所である。そのうちの城谷台の頂上には、北の守護神である毘沙門天のほこらがある。