(第Ⅳ・第Ⅴ曲輪)
第Ⅰ曲輪から第Ⅴ曲輪までの七連郭の各曲輪において、それぞれの東側縁辺には、いずれも堀割りに沿って土塁が築かれている。第三のネックと第四のネックには、桝形土塁が設けられ、しかもその間をつなぐ通路は、「要害台」の北側面で幾重にも折り曲げられて、その角々には、桝形状の土壇(L・M・N・O)が設けられている。これらの遺構の配置の志向性からすれば、この城址の大手口が東側にあったことは明らかである。
更に、この台地上から東を望めば、「要害台」の東北隅に、東の守護神・馬頭観音の堂宇があり、そこからわずかに二百メートルをへだてた北東には、奈良時代末~平安時代末にかけての布目瓦が出土する「大椎廃寺」があり、更にその北東約一・五キロでメートルをへだてて、同じく平安時代に属すると思われる「小食土廃寺」がある。この両廃寺が、果たして、国分寺に擬して造った、地方豪族の僧寺・尼寺か、単なる氏寺か、それともただの「鬼門除け」であったのか、今後の本格的な発掘調査にまたねばならない。