三 大椎城下と「ねごや部落」

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 現存の大椎部落は、城址の中腹から麓部にかけて設けられた、数段の腰曲輪状テラスの上に展開している。各戸の敷地は、それぞれ階段状に連らなり、城内に通ずる腰曲輪へと連絡し、麓から台地上に登るためには、必ず通過せざるをえない関門になっているのである。それらの屋敷のうちには、現在でも、「ねごや」、「ね」、「ねまわり」などの屋号が残されている。
 これは明らかに、中世に起源をもつ、典型的な「ねごや部落(註10)」の形態を止めており、近世に新たに発達したものではないことを、物語っている。このような、中世城郭の麓に展開する「ねごや部落」こそ、耕地を中心に、武士団と農民が根強く結合していた、中世村落の特色を最もよく表している。
 しかし、この大椎城址が、たとえ平安末期の平忠常や常兼・常重の居城であったとしても、彼らは当時すでに、三百騎以上の武士団を結集して、関東各地に武威を誇っていた有力な土豪である。その軍事的・政治的・経済的本拠地としては、この大椎城址も、その「ねごや部落」も、その周辺の田畑もあまりに狭少すぎる。特に、馬匹の数と、その機動力に頼っていた当時の武士団にとって、大椎城の台地続きには、馬場や放牧に適した広大な平坦地と、その遺構がなくてはならないはずである。
 そしてこの大椎城址が、当時の武士団のもっとも中核的な拠点であり、いわば「詰めの城」であったとすれば、その周辺には、当然外郭的な支城や砦、それに武士団の構成メンバーたるいくつかのグループやその村落が散開していたはずである。
 例えば、村田川の上流には、大椎城址の南方一キロメートルに郷土部落と向砦、板倉部落と板倉砦があり、更にその南西一・五キロメートルには、金剛地部落及び金剛地砦がある。そしてその北西一・五キロメートルには、大野部落が存在する。
 村田川の下流方面には、大椎城址の北西一キロメートルに大木戸部落と立山城郭と八幡台砦があり、更にその西方五百メートル~一キロメートルに、越智本郷及び越智新地部落がある。更にその西方五百メートル~一キロメートルに、越智新田及び越智勝負谷部落がある。そして、その南方一キロメートルの位置に、さきほどの大野部落がある。
 この村田川及びその源流や谷津によって囲まれた、約二キロメートル四方の中心部は、渺々たる平坦台地になっており、ちょうどそれを取囲むようにして、一~一・五キロメートル間隔に、城砦と「ねごや部落」が点在している。これらがすべて同時に存在したとは限らないが、その展開の様相からみて、その中央平坦部を軸にして、それら相互間に、何らかの有機的な結びつきがあったものと考えられる。しかも、この台地上には、現に立山城址と馬牧の址が存在しているのである(二―一八九図)。