この城址の東側面は、約四五度の急峻な断崖をなし、その中腹には、物見台(A・B・C・G・H・I・M・O)と腰曲輪(F・ナ、ニ、ヌ、ネ、ノ、ハ)が設けられている。特に最北端の物見台(A・B)からは、東は大椎城址、城谷台、御堂崎、北は石の戸、八幡台砦、大木戸部落、西は越智本郷、開中輪及び大椎城主の墓地と伝えられる御霊窪まで眺望できる。また、東側中央に舌状に突出し、八幡神社を載せている台曲輪(I)は、東南端の角状突出部(O)と相呼応して、大椎部落の全体と、その東の長興寺台まで遠望することができる。なお、その両突出部の中間にはさまれた中腹部から麓部にかけては、湧水の豊富な横井戸をもつ腰曲輪(J・K・L・M)がある。
城址の西側面は、台上の稜縁が自然地形のままに、つづら折りに曲折し、その突出部に物見台(V・S・R・Q)が設けられ、特にこの側面には、腰曲輪(カ、キ、ク、ケ、コ、サ、シ、ス、セ、エ)が発達している。なお、これらの物見台及び腰曲輪からは、麓の大木戸部落を詳細に観察でき、その麓部は四五~三〇度の急勾配をなしている。
更にこの城趾の南側は、その底に「十三塚」とよばれる小塚群が並列する西側からの谷津と、大椎部落の方から切り込んでいる東側の谷津とによって、「1の堀」をなしている。この谷津は、ボーリングの結果、幅二〇~二五メートル、深さ三~五メートルの大規模な堀割りの跡であることが判明した。なお、西側からの谷津では、十三塚の北側にも、九~十二基の小円塚の群列があり、それらの相互間は土塁で連絡され、その土塁と十三塚の間には、幅五~一〇メートル、深さ二~三メートルの堀割りがめぐらされている。そして、土塁は「1の堀」の北側の台地縁辺に沿って、はげしく曲折しながら東西に走っており、その南側側面には、腰曲輪(ヌ、チ、ツ、テ、ト)がある。
なお、台上の縄張りについては、その地形と遺構の様相から、対照的な二つの地区に大別できる。すなわち、「2の堀」以北の、南北にのびる舌状台地部(幅約三百メートル、長さ約五百メートル)を「桑垣地区」とし、「2の堀」の以南、「1の堀」までの東西に細長い平坦部(幅約三百メートル、長さ約八百メートル)を「立山地区」と仮称することにする(二―一九一図)。
2-191図 大木戸町・立山城址遺構部概念図