「桑垣地区」の縄張り

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 この地区は、現状では、「2の堀」(上幅一三~一五メートル、深さ二~三メートル)と「3の堀」(上幅一〇~一二メートル、底幅五メートル、溝中に合計六八個の柱穴状ピットが二列に、しかも交互になって穿かれている。俗に「おとし堀」と呼ばれている)の二本によって区画され、西側先端部の中腹に、九〇×一〇〇メートルの方形に区画された曲輪(Ⅱ)があるのみである。
 しかし従来は、西側の腰曲輪(エ)から東の腰曲輪Eを結ぶ堀割りがあったらしく、その一部が堀底道として残っている。同じく、台地のもっともくびれた部分を切断する堀割りもあったようで、その堀底道が残っている。これらをそれぞれ、「4の堀」、「5の堀」とすると、この舌状台地は、合計五区の曲輪に分割されていたことになる。
 しかし、このうち「Ⅱの曲輪」は、三方の背後に高台をひかえ、その周辺に腰曲輪(ア、イ、ウ、エ、オ、カ、キ、ク)を配し、その中央部はほぼ方形を呈しながら、三段の長方形に区画される。この形態から、おそらく、中世の初期においては、豪族の館または館城であったと思われる。なお、この周辺の腰曲輪には、大六天(W)、駒形大明神(V)及び天照皇大神(T)を祭ったほこらがあり、井戸曲輪(W)も存在する。