この東西に展開する平坦部は、一見単純な畑地のようにみえるが、実は、縦横無尽に設けられる堀割りと土塁によって、十数区の方形囲郭に分割されている。しかも、この地区だけの全域が「たちやま」と呼ばれているところから、これを館山、すなわち「やかた」の集合した台地の意だとすれば、中世においては、武士団の館群、すなわち館城であった可能性が大きい。
なお、この地区全域にわたって、直径四〇メートル、高さ八メートルの大円墳「きつね塚」をはじめ、円墳が七~一六基も散在している。ところが、その周辺の随所には、平安初期から鎌倉時代にかけての土師器や古陶器の破片が濃密に散在しているところから、かなり古くから、すでに集落址であった可能性がある。そして中世には、古墳の過半は削平され、土塁の一部に利用されたり、「人呼びの丘(註11)」などに活用されたものだけが、現存しているものと思われる。これは、考古学的な発掘調査を実施すれば、直ちに解決する問題である。
ところで、この地区も、台上の形状と、南北に走る堀割りや土塁などから、Ⅵ~Ⅸの四つの区分けができる。それらのうち、どこに城内への虎口が開かれていたかによって、それぞれの区画の機能や存在意義がちがってくる。現存する遺構のみによれば、桝形土塁が残っており、現在も「桑垣地区」の先端までの通路が開かれているP地点が大手口であったとすべきであろう。
あるいは、Ⅷ及びⅨの曲輪だけが、全体の地形からみて、独立していたとすれば、あるいは、これを「馬場」とし、西側台下の「中島池」を馬の水呑場と考えることもできる。この場合、「1の堀」の土橋状になっている位置から、X地点がそのための虎口とも考えられる。更に、西側の登り口(Q)が当時の虎口であったとすれば、敵兵の侵入に対する防禦線はますます多層化する。しかも、麓の村田川を城郭全体を取囲む外堀として、大木戸橋を唯一のかけ橋であったとすれば、「大木戸」という地名や「大門」という字名も生きてくる。また部落内の通路の曲折も効果的であり、この城郭全体の防衛的機能性もますます増大されることになる。
いずれにしても、「1の堀」から「3の堀」までに残存する土塁(幅五~七メートル、高さ一・五~三メートル)は、すべて堀の北側にあるところから、この城址の大手口は、南側または西側にあったものと考えられる。
以上のような城郭遺構を有する大椎城址及び立山城址は、形態的にみて、全く異なっているが、両者の城郭発展史上における、時間的前後関係はどのように規定できるであろうか。