大椎城址の型式と編年

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 この型式分類と編年によると、現存する大椎城址は、舌状台地上に築かれた、直線的連郭式城郭である。しかも、東側麓部の大椎部落を、当時の「ねごや部落」として把えるならば、いわゆる「根古屋式台地城郭」ということになる。しかも、その随所に設けられた腰曲輪、折邪の発達した空堀、堀底道や桝形遺構などの存在から、これは明らかに戦国時代の城郭ということになる。
 ところが、『千葉大系図』や『千葉伝考記』によれば、この大椎城は平忠常(九七五~一〇三一)が築き、『千学集(註13)』などによると、平常兼・常重父子が居住し、大治元年(一一二六)千葉城に移るまで、千葉氏始祖代々の拠点となっていたという。その後、上総介・平広常の叔父に当たる平維常が、「大椎五郎」と名乗り、この大椎城を継承した可能性もある(註14)。それにしても、それは所詮、平安末期から鎌倉初期までのことである。
 それ以後は、伝承や文献においては、いかなる豪族も武将も、この大椎城に拠った形跡は全くない。例えば、この北方わずか三キロメートルの地に、土気古城を再興し、天正十八年の滅亡まで(一四八七―一五九一)、大椎城を含む周辺をも領有していた酒井氏でさえ、その大椎古城を再興し、支城や出城として活用したという記録はどこにもない(註15)。