ここで、前に述べた立山城址の存在理由と、その機能性を考える上に、一つの重要な手がかりとなる問題を参考のために提起したい。
立山城址から「1の堀」をへだてた南側の台地は、その中央部が、東西約一キロメートル、南北約二キロメートルに及ぶ広大な平坦地になっている。しかも、この南北に細長い台地も、大野部落から分岐する三本の谷津と、金剛地、板倉及び郷土(ごうど)の各部落から切り込む支谷とによって、三つの地区に分割されている。このくびれ部を、南から第1、第2、第3のネックと仮称する。このうち、「第3のネック」には、俗に「伏兵場」とか「伏せ場」という名がつけられているところから、これらも立山城址に対する外郭的な防禦線の一つになっていたものと考えられる。
ところで、この三つのネックを通り、立山城址から大野部落に向って、台地の中央を貫通する一本の通路がある。この路に沿って、幅四~五メートル、高さ一~二メートルの土塁と、その西側に沿って、幅三~五メートル、深さ一・五~二メートルの空堀が、延々約一キロメートルにわたって残存している。これはまだ、更に断続しつつ延長している可能性がある。しかも、この土塁の曲折と、ネックの位置によって、この細長い台地は、東西南北に合計五~六つの区域に分割されており、おのおのの区画の台地縁辺には、やはり同じような土塁の残欠がところどころに残されている。
この土塁の規模や形態からみて城内における方形囲郭とは全く異なっており、その区画された面積もはるかに広大である。この土塁を、土地の人は、狩をするとき、鹿などを追い込む誘導の柵跡であったと伝えている。しかし、これは明らかに、牧場における「馬寄せの土塁」である。
すなわち、この広大な平坦台地は、馬の放牧地(まき)にちがいないが、その三カ所のネックが、すべて大野部落から発する支谷によって刻まれている。しかも、この台地の東側は、すべて急峻な断崖になっているのに対して、西側の斜面は、三本の谷津によって、おのずから大野部落に集結されている。この大野部落に、馬の水呑場があったとすれば、この牧場における位置は重要な存在となる。
ところで、『延喜式』の兵部省式の項に、「上総国大野馬牧」という記事がある。しかし、その大野が果たして、上総のどこに当たるかはいまだに不明である。従来、夷隅郡の大野説と、市原郡の大野説とがある。いずれも、その地に「駒込」という地名が残っていて、地形も牧畜に適しているからだという(註16)。しかし、いずれも確証はなく、『延喜式』の記事に対する牽強附会の推論にすぎない。
ならば、ただ単なる大野という地名ばかりでなく、現に「馬寄せ土塁」が延々と遺存し、明らかに「牧」と思われるこの広大な平坦台地もまた、その有力な候補地として挙げておかなければならない。
しかし、例え延喜式の官牧でなかったとしても、中世において、すでに馬の確保がされていたとすれば、この馬牧が、立山城址という中世城郭に直結していたことに、きわめて重要な意義がある。なぜならば、馬こそ、中世における武士団にとって、なくてはならない貴重な機動力であり、しかも有力な武士団として、三百騎以上の騎馬を確保するためには、大規模な牧場と馬場を必要としたからである。