七 大椎城址と立山城址との関係

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 以上のように、村田川の源流地域に少なくとも五カ所以上の城砦遺跡が集中し、その中でも、明らかに中核部をなす城郭遺構が大椎と立山の二カ所に存在している。しかも、中世城郭の機能的構造からみて、そのいずれも中核部だけで単独に存在しえたとは考えられない。当然、それらの遺跡や遺構は相互に密接に有機的関連を有し、それらの結合によってはじめて城郭としての機能を発揮しえたものと考えられる。そこで、大椎城址のほかに、立山城址の存在を紹介した以上、両者の関連について、向後の研究課題となるべき問題点を二、三指摘しておきたい。
 まず、これらの城砦群が軍事的防禦施設である以上、その防衛すべき対象は何であるかを明確に把握しておかねばならない。それはいうまでもなく、当時の人間集団の生活の本拠地である「ねごや部落」と、その集落の生産基盤である水田耕地及び馬の放牧地である。これら護るべき対象物があってはじめて、その防衛に有効な城郭の存在意義が把握されるはずである。このような観点から、大椎町及び大木戸町の周辺を概観するならば、この地域において水田耕作の可耕地は、村田川によって開析された沖積地であり、それを耕作した人間集団は、村田川流域に点在する台地縁辺の集落である。そして、それらの集落や耕地に囲まれた台地上に、広大な馬牧の存在を確認した以上、先にも述べたとおり、この馬牧を中心とする周辺の水田及び集落こそ、護られるべき主体であったと考えられる。
 すなわち、「大野馬牧」を中心にして、それを取り囲むようにして蛇行する村田川があり、その流れによって開析された水田が蜿々と続き、更にその縁辺に、金剛地、板倉、郷土、大椎、大木戸、越智本郷、越智勝負谷及び大野などの部落が点在している。これらの馬牧や水田や部落こそ、防禦すべき対象であり、そのためにこそ、それぞれの部落の背後には、金剛地城址、向砦、板倉砦、大椎城址、立山城址及び八幡砦などの城砦が構えられているのである。
 そこで、これらの防禦態勢の求心的原点を求めれば、当然、その中央にある「大野馬牧」にあり、この馬牧の所在する台地に「たてこもる」態勢においてのみ、これらの城砦の配置や集落の展開は有効であり、合理的となる。しかも、その台地の末端部に、広大な立山城址が厳然と存在しているのである。したがって、これらの防禦態勢や城砦配置のもっとも軍事的中核となるのは、当然、この立山城址ということになる。
 しかも、村田川の蛇行が天然の外堀となり、それによって囲繞された台地上に占拠している点、しかも広大な「牧」に密着して、自然の舌状台地の末端を単純に切断して、連郭状の「詰め」を構成している点などから、この立山城址は、きわめて小規模にまとまった典型的な「中世城郭」をなしている。
 これに対して大椎城址は、防禦態勢としては、むしろ立山城址の外郭的な前衛地点にあり、「大野馬牧」を中心とする地域に対しては、決して中核的な機能をもってはいない。もしもこれを中核部とすると、大椎城址は立山城址に対して、むしろ逆に敵対する防禦の構えになる。しかも、それにしては麓に展開する「ねごや部落」は孤立的である。これが北側の台地部に連なる土気城下の末端前衛線とすれば、村田川を遡上する敵軍に対する構えとして有効となる。
 しかも、先にも述べたとおり、大椎城址の城郭形態は、立山城址のそれに比べてかなり新しく、両者が同時に同じ中核部として共存したとは考えられない。特に、立山城址が俗称「隠居城」と呼ばれていることは、城郭そのものが機能的に隠居したのであって、大椎城が現存する状態に新たに構築されたときには、立山城址はその機能を失なっていた。
 すなわち、大椎城址も、その昔は、北方台地部に対する防衛線として、立山城址の外郭的支城か砦であった可能性がある。その後領主の中心的な拠点が移動したため、南方村田川に対する防衛線に変えられ、城郭の改築が局部的に行われたものと思われる。このとき、逆に立山城址は前衛的な外郭城砦としての機能さえ果たせればよいので、古い形態のままに放置され、新しく改築されることもなく、いわば廃城同然になったものと思われる。大椎城址には、全体的に中世初頭の古式の形態が認められながら、堀や土塁や腰曲輪など、局部に新しい遺構が存在するのは、そのためだと考えられる。
 いずれにしても、大椎城址よりも立山城址の方が古くから存在しており、中世城郭としての防禦態勢からみるならば、立山城址こそ、その中核的機能を保有していたことは明らかである。
 しかし、だからといって、ここに性急な結論を出すことはできない。あくまでも、大椎城址や立山城址が平忠常といかなる関係にあったかは不明である。それは今後の研究にまたねばならないが、それは、決して平忠常の居城としての根拠を模索することに止まる問題ではない。平忠常に関係あるなしにかかわらず、ここに厳然と大椎城址と立山城址とが存在し、その周辺に数多くの城郭遺構が分布している以上、そこには必ずやそれを活用した武士団や農民がいたことは否定できない事実である。今後、その人間集団の存在を前提として、これらの城址を徹底的に調査・研究する必要がある。その過程において、平忠常が関連してくる可能性がまったくないとはいえないだけのことである。

(後藤和民)


 
 【脚註】
  1. 竹内理三『日本の歴史』6 昭和四〇年
  2. 日本の城郭史研究においては、平安時代の末期、平将門の乱(九三九)から、戦国時代の末、織田信長による安土城の完成(一五七三)までを中世とするのが一般である。
       大類伸・鳥羽正雄『日本城郭史』昭和一一年
       小室栄一『中世城郭の研究』昭和四〇年
  3. 伝千葉重胤撰『千葉大系図』。寛永年間、『改訂房総叢書』第五輯所収 昭和三四年
  4. 作者不明『千葉伝考記』元文年間
  5. 小沢治郎左衛門『上総町村誌』明治二二年
    千葉県編『千葉県誌』大正八年
    房総叢書刊行会編『房総通史』昭和二四年
    千葉市編『千葉市誌』昭和二八年 その他
  6. 『千葉実録』には「下総国葛飾郡池田の郷に新城を築き」とある。『千学集』には「上総国の郷に住し」とある。『妙見実録千集記』には「大友に住す」とある。『総葉概録』には「下総州海上郡東大友に居住す」とある。
  7. 著者不明『土気古城再興伝来記』『改訂房総叢書』第二輯所収 昭和三四年
  8. 土気町役場編『土気城址』昭和四三年
  9. 中村恵次「千葉県山武郡土気町舟塚古墳の調査」『古代』四八号 昭和四二年
  10. これは、柳田国男の『都市と農村』(昭和二年)でいう「根古屋百姓村」、小野武夫の『日本村落史概説』(昭和一一年)でいう「豪族百姓村」に当たる。
  11. 『今昔物語』巻二六、利仁将軍の条に「其辺ニアル下人ノ限リニ物云ヒ聞ユル人呼ノ丘トテ有墓ノ上ニテ云也ケリ」とある。
  12. 小室栄一『中世城郭の研究』昭和四〇年
  13. 作者不詳『千学集』天正年間、『改訂房総叢書』第二輯所収 昭和三四年
  14. 伝千葉重胤撰『千葉大系図』寛永年間、『改訂房総叢書』第五輯所収 昭和三四年
  15. 『土気城雙廃記』、『土気古城再興伝来記』及び『南総酒井伝記』など、いずれも『改訂房総叢書』第二輯に所収 昭和三四年
  16. 邨岡良弼著『房総游乘』及び『日本地理志料』にある。共に『改訂房総叢書』第四輯所収 昭和三四年