この息災寺は現在群馬郡群馬町引間にあって王朝時代の群馬郡上郊(かみさと)郷にあたり(註2)、宝亀八年(七七七)八月、上野国群馬郡の戸五〇烟、美作国勝田郡の戸五〇烟を、妙見寺の本寺とされる河内国石川郡春日村(大阪府南河内郡太子町春日)の天白山妙見寺に寄進した由緒によって建立されたものと思われる(註3)。なお息災寺の伝承では、七仏薬師と妙見尊は別個の御堂に祀られていたことを伝えており、この方が正しいと思う。
2―192図 七星山息災寺の位置(本図は建設省国土地理院長の承認を得て,同院発行の2万5千分の1の地形図より複製したものである。(承認番号)昭49第1328号)
2―193図 七星山息災寺 (昭和46年撮影)
さて、この息災寺と上野国の国分寺址とは、染谷川をはさんで南北に相対し、また国庁址は染谷川を距てた東方にある前橋市元総社の水田中に発見されており(註4)、府中といわれるこのあたりは往時の群馬郡群馬郷に相当し、上野国の政治・文化の中心であった。天慶二年(九三九)十二月平将門が上野国に侵入、国司から印鑰(いんやく)を奪ったのも、まさにこの近くであったろう(註5)。
群馬郡の南には片岡郡があり、その南に緑野(みどの)郡と甘良(甘楽)(から)郡が東西に並んでいた。ところが和銅四年(七一一)に、朝廷は片岡・緑野・甘良の三郡から、各三百戸を割いて多胡郡をつくった(註6)。このことを記録したいわゆる多胡碑(たこのひ)が、往時の多胡郡衙(ぐんが)(郡司の役所)とみられている吉井町大字池字御門(みかど)にある。この碑文は、
弁官の符に、上野国の片岡郡、緑野郡、甘良郡並に三郡の内の三百戸を郡と成し、羊に給して、多胡の郡と成す。和銅四年三月九日甲寅、左中弁正五位下多治比真人・太政官二品穂積親王・左大臣正二位石上尊・右大臣正二位藤原尊宣す。(原漢文)
と読まれることから、羊という人物が新設の多胡郡司に任命されたことを記念して、彼自らが建てたものであろう(註7)。これら三郡内の郷名は、『続日本紀』に次のように記されている。
上野国の甘良郡の織裳(おりも)、韓級(からしな)、矢田(やた)、大家(おおやけ)、緑野郡の武美(むみ)、片岡郡の山等(やまな)の六郷を割きて、別に多胡郡を置く。(原漢文)
そこでこれらの郷名の所在地を現在の位置にあてると、織裳、韓級、矢田、武美の四郷は吉井町の南部を西から東に並び、大家郷は吉井町の北半部、山等郷は大家郷の東で高崎市山名町付近にあてることができ、『続日本紀』天平神護二年(七六六)五月、「上野国にある新羅人子午足等、一百九十三人に吉井連(むらじ)の姓(かばね)を賜う」とあることを考慮に入れると、吉井町から高崎市の西部にわたる往時の多胡郡は、新羅の帰化人を主とした居住地であったから、ここに新郡を設置し、大家(おおやけ)郷(朝廷の役所のある郷)に多胡郡衙を置き、この郡司(郡の長官)に羊という新羅系帰化人の有力者を任命したのであろう。なお「子午足」を「羊午足」の誤りとする説(註8)を妥当とするならば、午足は羊一族の族長であって、和銅四年の多胡郡司就任後の多年の功労により、一九三人という多数の同族も含めて吉井の連の姓を賜る破格の恩典に浴したわけである。
とにかく羊一族は、このあたりきっての豪族であったから、聖武天皇の天平一三年(七四一)国分寺建立の詔発布による上野国分寺建立の際にも多量の瓦を寄進したらしく、「羊」とへら書した文字瓦が少なからず出土するのみならず、「羊太夫」と称する長者伝説が、群馬県西部から埼玉県秩父地方にかけて濃厚な分布を示している(註9)。このことから更に推測を廻らすと、元明天皇の和銅元年(七〇八)正月十二日、武蔵国秩父郡より和銅が献上された。朝廷はこれを瑞祥(ずいしょう)として年号を和銅と改めるとともに大赦(たいしゃ)を行って、老人・孝子・節婦に物を賜い、この年の武蔵国の庸と秩父郡の調を免除し、二月から催鋳銭司(さいちゅうせんじ)の官制を設けて多治比真人三宅麿を長官とし、五月には銀銭、七月には銅銭を鋳造させ、八月から銅銭を発行している(註10)ことから、和銅の発見者には当然破格の恩賞があった筈であり、またこのような発見と採銅技術は、帰化人によってのみなし得たことであろう。このとき和銅が採掘されたのは、秩父市金沢の山中で、同市黒谷俗称鋳銭坊に和銅開珎の鋳銭司があったものと考えられるから、実際にこの事業の技術的担当者は、恐らく羊一族であったのではなかろうか。すでに述べたように、この和銅発見の年から三年後の和銅四年に、無位無官の羊某が恐らく左中弁(左弁官の次官)多治比真人の推薦により、一躍多胡郡衙の長官に抜擢されたとしてもあながち不思議なことではない。羊某はそれから一一年後の宝亀八年(七七七)、五〇戸の農民が住む群馬郡下の荘園を、日ごろ信仰する妙見尊の本山、河内国石川郡春日の妙見寺に施入するとともに、彼の本拠の近くに氏寺を建立し、河内の妙見尊を勧請して安置し、七星山息災寺と名付けて、寿福招来、延命長寿、後世安楽を願ったのであろう。
年号 | 西暦 | 月 | 事項 |
和銅元 | 七〇八 | 一 | 武蔵国秩父郡より和銅を献ず。 |
和銅四 | 七一一 | 三 | 上野国に多胡郡を新設し、羊を郡司とする。 |
天平十三 | 七四一 | 三 | 国分寺・国分尼寺建立の詔を発す。羊一族上野国分寺に瓦を寄進。 |
天平神護二 | 七六六 | 五 | 上野国の新羅人子(羊)午足ら一九三人に吉井連の姓を賜う。 |
宝亀八 | 七七七 | 八 | 上野国群馬郡の戸五〇烟を河内国石川郡春日の妙見寺に寄進する。このころ上野国群馬郡府中に息災寺を建て妙見尊を安置する。 |
備考 | 上野国分寺の建立は七四一年三月以後、七四九年五月以前のことであるが、ここでは一応天平十三年のところに記入した。 |