千葉氏と帰化系馬飼集団

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 千葉氏など坂東八平氏の祖平良文が七星山息災寺の羊妙見尊の加護を受けたとして尊崇したのは承平元年(九三八)のことであるから、もちろん羊(よう)一族はいない。しかし羊一族の子孫は、すでに天平神護二年(七六六)以後吉井氏を称して住み続けていたのであるから、彼らは自分たちの祖先の物語りを、羊太夫の話として語り継いでいた。彼らは七星山妙見寺を羊(ひつじの)妙見と言っていたに違いない。
 関東地方に帰化人集団が多数来住したのは、百済の滅亡(六六三)、高勾麗の滅亡(六六八)前後の時期であり、天智天皇五年(六六六)に百済の男女二千余人を東国におらしめ、持統元年(六八七)には、高勾麗人五六人を常陸国に、新羅人一四人を下野国に、新羅僧尼・百姓男女二二人を武蔵国におらしめ、持統三年(六八九)には新羅人を下野国に、和銅四年に上野国の帰化人のために多胡郡を新設、霊亀二年(七一六)には、いままで駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高勾麗人一、七九九人を武蔵国に移し、高麗郡を置いた。現在の埼玉県入間郡日高町一帯の高麗川流域で、高勾麗王若光を祭神とする高麗神社があり、武蔵国分寺からは多量の高麗郡の文字瓦が出ている。『和名抄』によると、高麗郡には上総・高麗の二郷が記載される。また神奈川県平塚市内にも高麗山・高麗寺などがある。また長野県にも早くから住んでいたらしく、『日本後紀』延暦一八年の高勾麗人の申し立てによると、彼らの祖先は推古・舒明両朝に来朝したとあり、高勾麗系の積石(つみいし)塚が長野県東筑摩郡坂井村や埴科郡松代市寺尾などに発見されている。
 これらの帰化人は中部地方から関東地方の広漠とした原野の開拓や池溝の造成、養蚕の発達にすぐれた技術を導入したが、とりわけ関東西部山麓や丘陵地帯の馬の放牧に重要な役割を担っていた。
 一体我国の乗馬の風習は高勾麗の騎馬文化に源流を発し、新羅や百済に波及したものが、四世紀末ないし五世紀前半のころ、日本に渡来した帰化人によって畿内の支配者層に伝播したのが初めである。このころの大和朝廷は摂津の南部から河内地方を有力な政治上の拠点としており、応神・仁徳両朝の皇居が難波にあったという説話や、応神・仁徳・履中陵を始めとする巨大な前方後円墳が、堺市の東部から松原・羽曳野・富田林市周辺に築造されていること、応神陵陪塚出土と伝えられる鞍橋(くらぼね)や仁徳陵出土の馬形埴輪があること、馬飼氏族の伝承が南河内に多いこと、一〇世紀初頭に編纂された『延喜式』の左右馬寮の馬飼戸の数を見ると、山城国一一烟、大和国八九烟、河内国一五九烟、美濃国六烟、尾張国九烟となっており、河内国の馬飼戸数が断然他を凌駕しているのは、その伝統が王朝時代に引き継がれていることを示していることなどによって、南河内地方に朝鮮渡来の馬飼集団が多数定着していたことがわかるのであるが、このあたりの地形からみて、その本拠は金剛山脈西傾斜面の石川の本支流によって造られた扇状地形付近にあることが想定され、羽曳野市から太子町にいたるいわゆる「近つ飛鳥」の地で、ここはまた帰化人を従えた最大の豪族蘇我氏の本貫でもあった。恐らくこの地に集団を営なみ、馬牧を業とした馬飼の人々は、故国で信仰した牧神を勧請して敬けんな祈りを奉げることを忘れなかったであろう。この神こそ北極星を神格化した北辰尊星王であり、奈良時代末ころから仏教にくみこまれて妙見尊星王(妙見菩薩)に示現した尊像と変わり、これを集落の頭上に仰ぐ信夫山の中腹に安置し、社殿を営なんで天白山妙見寺と称したのであろう。
 大化改新を経て王朝時代になると、「外国の使節の往来する大路の近くには、外来人を置いてはならない(註11)」と規定され、むしろ彼らを、東海・東山道など遠隔地に移住させ、未開地の開発を進めようとする政策が採られた。こうして東方に移住させられた多数の帰化人の中で、中部山岳地帯から西関東の山麓方面に集団を構えた牧人が、意外に多かったであろうことは、『延喜式』左右馬寮の御牧(皇室直轄の馬牧)の所在が、甲斐三、武蔵四、信濃一六、上野九の計三二牧を数え、毎年貢進する馬数は甲斐六〇、武蔵五〇、信濃八〇、上野五〇の計二四〇疋と定められていることによっても推測されるが、このほか平安時代の初期以来貴族・豪族が開拓したこのあたりの荘園の中に、牧場を設置して帰化人を従属させたものも多かったと思われる。そしてこれらの牧人はおのおのの集団の中に、河内国天白山妙見寺から妙見尊星王を勧請して祀ったことはいうまでもなかろう。さきに述べた上野国群馬郡府中花園村の七星山息災寺の羊妙見尊もその一つであり、羊氏族集団が、彼ら自身の手で開拓した荘園内の戸五〇烟をはるばる天白山妙見寺に施入(せにゅう)することによって、本尊を勧請し、七星山息災寺と称したのである。その後、この付近は平良文に占領され、良文自身も帰化集団を従属させて勇猛な騎馬隊を養成する意慾に燃えていたことが、羊妙見を守護神として崇拝する動機となったのであろう。『千学集』によれば、良文・忠頼父子の間は武蔵・相模の各地に奉斉し、忠常以後房総に遷座して末永く千葉氏の守護神となし、千葉一族はいうに及ばず、その家臣から一般庶民にも篤く崇敬されたのみならず、その滅亡後今日に至るもなお妙見の余沢を受けている人々が多いという。

(武田宗久)


 【脚註】
  1. 現在は三鈷山妙見寺と称し、天台宗である。
  2. 『和名抄』巻七
  3. 『続日本紀』宝亀八年八月一五日条。息災寺の寺伝では、これよりも早く神亀五年(七二八)八月一五日を建立の日時としている。
  4. 前橋市教育委員会『昭和四一年度上野国府跡発掘調査概報』昭和四一年
  5. 『扶桑略記』天慶二年一二月の条
  6. 明治二九年に多胡・緑野・南甘楽郡を合併して多野郡とした。
  7. 尾崎喜左雄『上野三碑』昭和四二年
  8. 吉田東伍『大日本地名辞書』
  9. 豊田義孝『多胡碑集説』、富田永世『上野名跡志』『埼玉県比企郡慈光寺縁起』『羊太夫縁起』『八束軍記』
  10. 『続日本紀』和銅元年条
  11. 『令義解』雑令