2 妙見信仰の源流

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 妙見の信仰は北極星を神秘な力をもつ存在として神格化したことに始まる。日本に伝えられ、まなびとられ、人々のあいだに信ぜられるようになってひさしい。古代の天皇は北辰(北極星)に国家の鎮護を祈り、人々は招福・攘災・延命を祈願した。やがてこの星を守護神として祭る武士団があらわれた。周防の大内氏の北辰妙見がそれであり、平良文を始祖とあおぐ下総の千葉氏もまたそうである。千葉氏は北辰妙見を戦勝の妙見として、その姿を変えたあらわれである破軍星を特に崇拝し、妙見信仰の伝承と史実を房総を中心につくりあげた武士団である。
 ここで、妙見信仰の源流をたどりながら古代千葉氏を中心にこの信仰の意味と役割を明らかにしよう。
 妙見の信仰が星辰(ほしのやどり)に対するものであるところから、この問題のいとぐちを星辰信仰ということに焦点をしぼってゆこうとおもう。
 星辰に神秘的な力があることを感じて、その神秘な力の源泉にすがり、すくわれようという星辰の信仰、更にそれからすすんで星辰の変化や運動を体系的にとらえる天文・暦法などは原始以来の日本では、あまり発展しなかった。
 中国では西紀前二千年を中心として前後二、三百年を範囲と算定されるきちんとした天体観測の記事(註1)があり、その成果をもって四季の順を定め、農耕や航海などに応用し、暦法を製作するという合理的な所産をもったが、また一方で日月五星の動き、雲気といった天体現象をもって占星宿命の呪術的な星辰観を発達させた(註2)。天象の吉凶を知り秩序を正しくたもつのは、聖王の責任であった。
 また、更にインドのヴェーダ以来の北極星や北斗七星に対する尊信が、仏教に同化されて、密教の教典の中にとりいれられた。やがて、中国につたえられると道教などの思想の影響をうけて漢訳され、日本に伝来した。中国では「文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経」(二巻)「舎頭諫太子二十八宿経」(一巻)「北斗七星護摩秘要儀軌」(一巻)「仏説北斗七星延命経」(一巻)などの経典が七世紀の中ごろに訳されており(註3)、日本にも順次に伝来された。これら星辰に関する大陸文化は、古墳の副葬品にみられるような物質文化として、あるいは中国や朝鮮からの人々の渡来、日本人の留学生や留学僧による精神文化として伝来し、儒教・仏教・道教・陰陽道が古代天皇の中央集権の大きな推進力となって働き、広く根をおろしたのであった。
 まず興味のある素材は東大寺山北高塚古墳出土の太刀とその銘文である(註4)。奈良県天理市の北部、古代の和珥氏の本拠地と考えられる和珥の村から南数百メートルの地点、高瀬川と和爾川の両河谷にはさまれた台地の西端にきずかれた、古式の前方後円墳が東大寺山古墳である。
 昭和三十五年(一九六〇)から翌年にかけて、東大寺山北高塚古墳が天理大学参考館によって発掘調査された。そして発掘された多くの遺物中にあった一口の鉄刀(鳥首飾の銅製環頭を着装した総長一一〇センチメートル、刀身一〇三センチメートル、関幅二・六センチメートルで内反りがいちじるしい)の刀背に次のような金象嵌の銘文がある。
 中平□□ 五月丙午 造作 百練清 上応星宿 
 中平の紀年から、後漢の霊帝の時代、すなわち二世紀末が作刀の年代であることを示している。作刀の次第が述べられて、道教風の吉祥句をくわえた銘文は日本に数多く発見される前期古墳出土の漢魏の紀年をもつ鏡銘にみる形式である。後漢の末の紀年の明らかな鉄刀で、しかも道教風の星辰信仰を示す文字をきざみこんだものが、大和の地方の族長の一人の手中に伝存したことは、大陸的・貴族的な物質文化の伝来であり、日本の原始神道が星辰に対する信仰をあまりもたないといわれるとき、まず関心をひかれた素材であった。
 更に素材を求めてゆくとおなじく奈良の法隆寺・正倉院・大阪の四天王寺に北斗七星をきざんだ宝剣、七星剣というものが伝わっている。鎮護国家、滅敵、破邪のために北斗七星を刀身にきざんで、北斗の神霊をやどした宝剣としたもので、やはり伝来の思想である(註5)。
 法隆寺の大宝蔵殿に行くと、その一隅に銅剣二口が展示されている。十分に注意して観察しないと銅剣にきざまれた模様は、はっきりと見さだめがたい。この二口は金堂安置の国宝四天王のうち持国天・増長天の持物であるといい伝えられている。一口は七星剣であり、もう一口は日・月を線刻した銅剣である。七星剣は持国天の所持で無銘、刀身四九・八センチメートル、雲形―七星―日―雲形―月―雲形―鉾形がきざまれている。また増長天の所持の銅剣は刀身四九・一センチメートル、同じく無銘である。ともに、飛鳥ないし白鳳時代の日本の刀工の製作と推定されている。法隆寺を建立した聖徳太子が幼少のころの御守刀であると伝えられている。四天王寺にも、聖徳太子の佩用と伝承される丙子椒林剣とならんで七星剣が保存されている。刀身六二・四センチメートルの直刀で金象嵌がほどこされ、等間隔に数個の瑞雲文をちらし、その雲と雲の間に、小円を直線でつないだ三星文と七星文を配している。中国・朝鮮からの伝来か、日本の刀工の製作か不明である。

2―194図 法隆寺の七星剣の模写
    (原色版『国宝』2 上古・飛鳥・奈良Ⅱ)

 東大寺の献物帳(けんもつちょう)にある刀剣百口のなかに、星雲文を象嵌したものが八口あったというが、正倉院に呉竹鞘の一刀が伝わっている。早蕨形雲形―横に二星を結んだもの三列―雲形―七星―雲形―三角形星文―雲形―直線上三星―雲形となっている。
 これらの七星剣のうち、法隆寺・四天王寺のものが、いずれも製作年代が古く、大陸伝来のものともいわれ、いずれも聖徳太子の御守刀・佩用ということで伝わっているのは意味がふかいようにおもう。
 奈良県高市郡明日香村字上平田の高松塚古墳(註6)は飛鳥川と高取川にはさまれた吉野方面からのびた舌状台地にある円墳で、天皇陵などに接する位置である。江戸時代の『山陵志』では文武天皇陵とされたが、明治以後、陵はほかに定められ、飛鳥の自然にうもれたが、最近文化財保護と明日香村史の充実のために調査された。この古墳は七世紀末ごろと推定される貴人の墓である。槨内に極彩色で壁画がえがかれ、男女一六人の風俗を、青竜・白虎の両側にえがき、北に玄武をえがき、南壁の朱雀は盗掘で破損されていた。青竜のうえに太陽、白虎のうえに月をあらわし、天井石には二八宿のうち一六宿を、天の北極を中心にえがき、星宿と四神の結びつきが示されていた。日本と中国・朝鮮との関係について、壁画古墳の研究を通じて、再検討が行われることになったのは非常な興味をおぼえる。

2―195図 高松塚古填の玄武    (『週刊朝日』1972.4―14号)


2―196図 遇賢里大墓,玄室北壁の玄武    (『星と東方美術』)

 末永雅雄(註7)は、この高松塚古墳の壁画によって、考古学・古代史・美術史にあたえた歴史的な諸問題は今後果てしなく発展することになろうと課題を三点に分けて述べている。
 第一点は「この壁画に描かれた人物像にある。中国各地、とくに鴨緑江(通溝)・大同江(江西)流域の壁画古墳に表現する人物との比較研究から、この人物像に対する解明の鍵が得られるはずである。」
 第二点は「四神と天体文様の究明によって、中国にスタートした東洋における原始信仰と、日本へのその受入れ方である。古墳壁画の場合には、他を見ないようなこともありうるが、もっと広く研究対象を求めなければなるまい。」
 第三点は「高松塚の壁画の構成から見て、人物は通溝古墳群(註8)、四神は江西の四神塚(註9)に親近性をもち、天井の星座はこの古墳壁画の独創的な構想といえる。」との指摘は、文化の吸収における撰択と独創という主体性のあり方にふれて重要である。
 日本における北極星、すなわち北辰の信仰はかなり古くから行われた。
 『類聚国史(註10)』によれば
 延暦一五年三月 庚戍 禁北辰 朝制已久 而所司侮慢 不禁止 今京畿吏 毎春秋□月 棄職忘業 相―集其場 男女混〓 事難潔清 □□□祐 反招其殃 自今以後 殊加禁断
 禁制がでていたにもかかわらず、平安遷都後も京畿の地方の各階層で盛んであった。北極星を霊妙な存在として祭るものである。春秋の二季、天皇みずから北辰に灯をそなえるということをやった。この信仰は讖緯思想や道教からでて陰陽道にとりいれられたものである。北極星が国家の興滅や厄災にかかわると信ぜられていたことがわかる。
 密教では、この北極星を星辰の王として北辰尊星、尊星王とし、また妙見菩薩となずけて鎮護国家・招福・攘災・延命を祈った。
 北極星=北辰尊星を古くから祭る霊地に山口県山口市の氷上の妙見(註11)がある。推古天皇の時代に北辰尊星供を伝えた百済の王子の子孫がながく北辰を祭った聖地として知られ、大内氏の守護神は北辰妙見であった。熊本県の八代市の八代妙見宮(註12)も古い歴史をもつ聖地である。妙見宮は、上宮・中宮・下宮に分かれ、上宮は八代の横獄、約四百メートルの台地上にあって延暦年間の創建であるという。中宮・下宮は、この後にそれぞれ祭られたものである。この妙見宮の祭りが特に盛んであったのは近世のようで、九州三大祭の一つとされた。神幸行列の風流のなかに亀蛇の風流があり、注目される。社宝は散失したとのことであるが、下宮には星宿を刃の両面に金象嵌した宝剣を伝えている。
 北斗七星については、すでに七星剣についてふれたが道教で祭られ、貪狼、巨門、禄存、文曲、廉貞、武曲、破軍の名がある。

2―197図 北極・北斗の図    (『星の事典』ほか)

 密教でもこれを日月五星の精とみて祭り、生れ年によって運命星を定めて畏敬し信仰することが行われた。
 奈良県斑鳩の法輪寺の妙見信仰は、その教えのよってくるところを道教の古典「抱朴子」、密教典の「北斗七星護摩秘要儀軌」によって説明している(註13)。密教の秘法に北斗修法があるが(註14)、康和三年(一一〇一)宮中で百日にもわたって北斗の修法がくりひろげられたことがある。
 また河内長野市の観心寺は役小角を開基とし、開祖を実慧道興大師ともされる南朝ゆかりの古刹である。樹々の繁る寺域は北斗七星を祭る七星祠を配置した独特のプランでつくられている(註15)。
 「日本霊異記」(『日本古典文学大系』)によれば、
 河内の国の安宿(あすか)の郡内に、信夫原(しではら)の山寺があった。妙見菩薩に灯明をあげるところで、都近在の諸国から毎年灯明をあげた。
とある。すなわち
 妙見菩薩の信仰は、奈良時代の末、称徳天皇のころ、河内の国の安宿の郡内に、信夫原の山寺があって、ここが妙見菩薩に灯明をあげる寺で、都近在の諸国から毎年灯明があげられにぎわった。
 武田祐吉(註16)によれば、この寺は、大阪府南河内郡太子町の春日にある天白山妙見寺(註18)である。飛鳥の京からでて二上山の南の竹内峠を西へ向ったかつての官道竹内街道に沿った位置にある。附近には敏達・用明・推古天皇の陵、聖徳太子の墓、伝蘇我倉山田石川麻呂の墓など六世紀から七世紀にかけて蘇我氏に深くつながるものばかりである。河内蘇我氏の本拠であり、高勾麗・新羅・百済の渡来者の集団が住みついた地方である。

2―198図 春日の妙見寺と史的環境  (『太子町誌』ほか)


2―199図 春日の妙見寺    (昭和46年撮影)

 またこの寺の境内の茶臼山から紀朝臣吉継の墓誌が出土した。奈良末期に蘇我氏と同族関係にあった紀氏一族のものである。同じく附近の形原山(帷子山)から天武天皇の大弁官妥女臣竹良の墓誌が出土した。紀氏や妥女氏一族もこの地に深い関係を有していたことがわかる。
 寺伝によれば、推古天皇の時代、現寺地の東方にあたる信夫山(妙見山)に蘇我馬子により妙見菩薩を祭る寺として開基されたという。以上のことから、この寺が少なくとも奈良時代末期~平安時代前半のころ、わが国における妙見信仰の中心地であったと思われる。
 『続日本紀』によれば、光仁天皇の宝亀八年(七七七)八月十五日の条に「上野国ノ羣馬ノ郡戸五十烟。美作ノ国勝田郡五十烟ヲ拾ス妙見寺ニ」とあり、ここは「日本霊異記」の説話の舞台でもある。この寺をめぐる史的環境は蘇我氏・渡来者集団・河内源氏の本拠に近く、その繁栄についての伝承・説話の背景をささえるにふさわしいものである。いまの妙見寺には、かつての繁栄のおもかげはない。平安の初めごろの妙見寺は真言宗として、のち曹洞宗として再興されており、妙見菩薩を秘仏として祭っている。
 奈良の斑鳩の法輪寺は、法隆寺・法起寺とならんで聖徳太子一族のゆかりの寺としての由緒を伝え大和の自然にとけこんだ寺観が訪れるものの心をなごませる。法輪寺は古くは御井寺ともよばれた。推古天皇のころ聖徳太子の妃が山背大兄王とともに創立したと伝える。この寺の境内には妙見堂があり、妙見菩薩が秘仏として祭られている。かつては、寺の北方の妙見山に安置され奥の院とよばれていたが江戸時代に境内に安置したのだという。秘仏(註19)は像高五尺、寄木造白木の立像で竜のうえに立ち、頭部は精巧な彫刻の宝冠と大月輪の面に九つの小月輪をそなえた四臂(四手)の姿である。二手は日輪と月輪をささげ、二手に巻物と筆をもっている。脇侍は右が司録(男神)で硯をもち三尺九寸、左が司命(女神)で紀籍をもち三尺三寸である。

2―200図 法輪寺の妙見像
    (『星と東方美術』)

 石田茂作(註20)は、この妙見の立像が「妙見=北辰菩薩=北極星の神格化である」とし、この像の製作年代を刀法より藤原時代におくことがゆるされるならば、現存最古の妙見像といえることを明らかにしている。また、妙見菩薩の脇侍である司録・司命は道教でいう神である。法輪寺(註21)がその妙見信仰を説明した「法輪の光」のなかに、聖徳太子の存生のときのこととして北辰を祭るおり、北方の空中より妙見菩薩が現出して天竜に乗り、司録・司命の二神をしたがえ、国土の鎮護とすべての人をすくうと誓願をつげたことによるという。「北斗七星護摩秘要儀軌(註22)」「抱朴子(註23)」にその論拠をもとめ、人間の生誕のめぐりあわせに道教の説く占星宿命をふかくむすびあわせて説いているようにおもわれる。自己の属星を運命星として畏敬し、信仰をささげるというものである。道教の影響が濃く社会の背景をなしていることがわかる。
 「日本霊異記」によれば、
  呉原忌寸名妹丸(くれはらのいみきなにもまろ)(帰化人か)は大和の国の高市の郡波多の里の人である。幼少のころから網をつくり漁をとるを業とした。延暦二年の秋八月十九日の夜、紀伊の国の海部の郡の友島附近で三隻の舟に九人が乗って操業していたが、たちまちに大風が吹いて三隻の舟が難波し、八人が溺死した。そのときに名妹丸は漂流し、まごころをこめて妙見菩薩にすがって、「我が命を済(すく)ひ助けたまはば、我が身を量(くら)べて妙見の像を作らん」と祈った。明るい月夜に目をさましてみると海部の郡の加太の浦の浜の草の上にいた。像を作ってうやまった。
 
とある。
 これは、妙見菩薩の現世利益を述べた説話であるが、帰化人の血をひくと思われる一人の漁師とその奇蹟的な生還、等身の妙見像の製作と尊信というような、古代の妙見信仰の一例をかたっているものである。
 法輪寺蔵版の「北辰妙見菩薩課誦」には「妙見菩薩神呪経」「北斗七星開運息災念誦」「妙見菩薩和讃」などが載っている。
 「妙見菩薩和讃」には、
 歸命頂禮妙見尊
 大悲神變自在にて
 一切衆生の善悪を
 普く照し見たまへば
 妙見菩薩と名づけたり
 または衆星の上首にて
 七星囲繞したまへば
 尊星王とぞ称すなり
 毎夜北にあらわれて
 長生の衆生を導けば
 北辰菩薩と號すなり
とある。
 奈良の春日野町の春日神社の原生林の中を柳生街道が通っている。この街道の地獄谷に聖人窟があり、聖人窟の壁には彩色線刻の六尊仏がある。奥に向って入ると右手の壁に北斗七星妙見菩薩がある。宝冠と面部ははっきりしていない。大月輪のなかで小円輪を光背として蓮華に結迦趺座している姿を陰刻している。右手に長い蓮華杖を持つが先端の花の部分は欠けている。左手は腰の近くで握って蓮華の柄をもち、周囲に小さい円点で北斗七星をきざんでいる。この妙見菩薩は二臂(二手)の座像で藤原時代末期から鎌倉時代の製作と考えられるものである(註24)。

2―201図 柳生街道聖人窟の妙見像(昭和46年撮影)

 京都及びその近郊の聖地としては、三井寺・北山霊厳寺・山科大塚の妙見寺・星田の妙見宮などがある(註25)。
 群馬県群馬郡国府村(現群馬町)の引間に天台宗の妙見寺(註26)がある。花園妙見・七星山息災寺などともよばれる。地元の人々は日本三妙見(註27)の一つであるという。妙見寺は、古く上野の国分寺の所在地、国分村(現群馬町)にあった。『続日本紀』の宝亀八年八月の記事はすでに引用したところであるが、河内の妙見寺に施入された上野国群馬郡の戸五〇烟の地であると推定される(註28)。
 当地に住む人々がそうであると考えているように、古代関東の妙見信仰のよりどころをなすものであろう。『千学集』によれば、千葉氏の始祖とする平良文が、その所領に勧請して祭った妙見は、ここの妙見であると伝承されている(註29)。
 この妙見寺の草創を確実に伝えているものはないが地元には『妙見寺明細帳』とか『萩花園星神記』と称するものがある。
 中世の応永ころより元惣社の長尾氏が外護してさかえ、応永三年(一三九六)に建立の宝塔、応永十七年(一四一〇)に長尾憲明の寄進した梵鐘の存在、また境内の石殿の調査(註30)などから、このころある程度の寺観の整備がなされたことがわかる。鐘銘には妙見寺をきざんで「上野州群馬郡府中 妙見寺」とある。明暦の時代に僧亮舜の中興の後に類焼し、天保年間に再建されたのが現存のものである。本尊は秘仏であるが、前立に玄武(亀と蛇)のうえにたつ妙見を祭っている。この木像の製作は江戸時代と思われる。
 また群馬町の北にある榛東村(註31)には、九曜星を神紋とし千葉常将を祭る常将神社があり、九曜星を家紋とする一一戸の家々がある。「奥州相馬妙見大菩薩」ときざんだ碑の所在する部落もあり、千葉系勢力にともなう妙見信仰の分布を奥州相馬氏との関連もふまえてみることができる。

(土屋賢泰)


【脚註】
  1. 1 熊田忠亮『暦』昭和四五年
  2. 2 『史記』
  3. 3 高楠順次郎『大正新修大蔵経目録』昭和五年
  4. 4 金関恕「東大寺山古墳の発掘調査」、梅原末治「日本出土の漢中平の紀年太刀」『大和古文化研究』七の一一
        直木孝次郎『奈良』昭和四六年。昭和四六年七月二四日、天理大学参考館を訪問、東大寺山関係出土品を見学
  5. 5 「原色版国宝」2『上古・飛鳥・奈良』Ⅱ
        野尻抱影『星と東方美術』 昭和四六年
        佐藤貫一『日本の刀剣』。昭和四六年七月二五、二九日に法隆寺、四天王寺を訪問
  6. 6・7 末永雅雄編『飛鳥高松塚古墳』昭和四七年
  7. 8・9 通溝は三~五世紀にかけて丸都城とよばれ高句麗人の根拠地となる。高句麗古墳の風俗画は宗教画よりも古拙の趣がありいかにも高句麗人の生活という感がにじみでているといわれている。
     平壌附近の江西郡三墓里の大墓と中墓などの四神図はもっともととのった構図といわなければならない。
     四神図は中国的要素の濃厚なもので中国の鏡背文と一致することが時代考証のよりどころとなったほどである。画法は風俗画よりもすぐれ、優秀な作品は中国から招かれた画工が画いたと考えられるものさえあるほどである。『世界考古学大系』
  8. 10 「北辰祭文」「尊星王供告文」
       『朝野群載』巻三文筆下
       『類聚国史』巻十神祗十
  9. 11・12 吉田光邦『星の宗教』昭和四五年
  10. 13 法輪寺発行『法輪の光』
  11. 14 「北斗御修法祭文」『朝野群載』巻三文筆下
  12. 15 吉田光邦『星の宗教』前出
  13. 16 「日本霊異記」『日本古典文学大系』参照
  14. 17 『太子町誌』昭和四三年
        昭和四六年七月二七日、太子町を訪ね、岩井教育長、妙見寺畑住職にお会いする。妙見寺を見学
  15. 18 昭和四六年七月二五日、法輪寺を訪問、村上住職に法輪寺の妙見信仰につきうかがう。
  16. 19 法輪寺の妙見は秘仏である。野尻抱影『星と東方美術』参照
  17. 20 石田茂作『法輪寺大鏡』昭和一二年
  18. 21 「抱朴子」東晋の葛洪
  19. 22 唐の金剛智訳( ~七三一)
  20. 23 「抱朴子」前出
  21. 24 太田古朴『石仏柳生街道』
        昭和四六年七月二六日、聖人窟を見学
  22. 25 『星の宗教』前出
  23. 26 『国府村誌』昭和四三年』
     昭和四六年一一月五日、国府村(現、群馬町)引間の七星山息災寺を訪問。同行してくださった群馬大学相葉伸教授、息災寺の惣代の方々、前橋市教育委員会の近藤氏の教えをいただく。
  24. 27 日本三妙見は、八代の妙見、引間の妙見、勝田の妙見だという。
  25. 28 吉田東伍『大日本地名辞書』下巻
  26. 29 『国府村誌』前出
  27. 30 近藤昭一「上野妙見寺境内石殿について」『群馬文化』一二号
  28. 31 相葉伸「榛東村の民俗」『群馬県民俗調査報告書』第六集