良文の兄弟たち―国香、良兼、良持、良正といった人々は在庁職を背景に常総・武相方面に広く展開し地盤の拡張をねらって活動していた。
その兵力は、田夫・伴類とよぶ農民をもって形成されていたが、階層的な構成は、まだはっきりしたものでなく、この一族の結合は、まだゆるく、私闘がくりかえされていた。
千葉氏が祖先良文とともに祀る将門は彼ら兄弟の甥であった。将門の所領は下総国豊田庄を本拠に猿島・相馬方面にわたって分散しており、良文の所領とは南で接していた(註32)。
妙見が示現したのは、承平元年(九三一)、良文と将門が結んで上野国に攻め入り、上野国府中花園の村の染谷川で国香の大軍と衝突して七日七夜にわたり合戦をくりかえし、わずか七騎にまで打ち破られ、良文も落馬に及ぶありさまであったが、そのときに童子(金色の光ともいう)となって示現した妙見菩薩は、敵の頭上に剣の雨を降らせ、残った七騎はさんざんに切り勝った(註33)。
良文・将門の七騎が勝利のあと、たずねあるくと、童子となって示現したのは府中の七星山息災寺の妙見菩薩であった。童子となって良文を守護したのは、ここの妙見なのであった。このとき以来、この妙見は良文の弓箭神として尊信をうけ、千葉妙見は、この妙見を戦勝の妙見として祭ったのがはじまりである。
また、良文の誕生が仁和二年丙午ともいわれ(『千葉大系図』)、その属星が破軍星にあたるところから、尊星王、北極星=北辰妙見を氏神としたとも説明されている。
千葉氏の家紋が月星紋であるのは、染谷川の戦いのときの、妙見菩薩のお告げにもとづくものだという。また九曜の紋も、これによるという(『千学集』)。また良文の誕生の時の身体の一部に、九曜の形のいぼがあり、妙見がこれより九曜を家紋とせよとのお告げがあったからとする(『妙見実録千集記』)。月星紋については、天女の羽衣に月星紋があったとも説明する(『君島系図』)。また、良文の子の忠頼の時代の千葉石の祥瑞にもとづくともいう(『千葉大系図』)。『君島系図』には、秋の雄鹿・雌鹿の紋もある。「日本霊異記」の説話に妙見菩薩の威力をかたって鹿に化身した妙見菩薩が天空をかけるが、これは北極星の精をうけた霊獣が「きりん」という鹿の一種であるというところからきているのであろう。家紋は、いずれも妙見信仰によったものである。
2―202図 千葉家の家紋
承平五年(九三五)、東国の農村を舞台に一族の内訌から伯父のひとり常陸大掾国香を敗死させ、常総・武相・上下野と駆走し、東国八カ国を支配し新皇と称した将門は、天慶三年(九四〇)、国香の子、平貞盛や藤原秀郷に敗れて死んでいった。東国を舞台に歴史の新しい担い手の登場を示した一大事件であった。敗死した将門の遺領は伯父良文の所領となり、以後は相伝して千葉氏の所領となった。将門の敗死は「妙見菩薩の捨て給ふなり』(『千学集』)ともいうが、将門の妙見信仰の真偽は不明であり、相馬の野馬追いの行事にみられるように、将門と妙見信仰とがむすびついている場合もある。妙見は良文によって、本拠の武蔵国大里郡の藤田に勧請され、秩父郡の大宮に、更に相模国の村岡にと移し、忠頼をへて忠常に伝わった。忠常は、はじめて房総に勧請し、上総の人見、おなじく上野、下総の大友、上総の大椎へと次々に祭って尊信した。
2―203図 古代千葉氏の妙見の勧請
また、のちに妙見を奉安する北斗山金剛授寺(註24)は、長保二年(一〇〇〇)に忠常が、土地の人々によって勧請された香取神社が建てられていた俗称「かとり山」の境内に建立したのがはじまりで、二男の覚算を開基とするという。はじめ毘沙門天を秘仏とした。現在の千葉市院内町千葉神社とその周辺にあたる。金剛授寺は真言宗の寺院であった。
忠常は、上総や武蔵の在庁職を歴任して実力あり、「私ノ勢極テ大、上総下総ヲ我ママニ進退シテ公事ヲモ事ニモ不為リケリ(註35)」といわれた。下総の大友城址、上総の大椎城址は居城のあとといわれる。このうち、大椎城址は千葉市大椎町(旧山武郡土気本郷町大字大椎)にあり、城址は舌状台地にあり、南はひらけて縁辺に人家が集っている。北流して西裾をめぐる村田川が流れて水田・畑が展開している。「根古屋(ねごや)」「高屋(こうや)」とよばれる中心的位置を占める家々のあたりにかつて妙見堂があったというが、今は人々がそれぞれ自宅に祭ったりしている(註36)。
忠常は、万寿四年(一〇二七)から五年にわたって房総三国を舞台にほとんど疲弊のどん底につきおとす大乱を起こした。河内源氏の頼信の討伐がはじまるや戦わずして降服して、まもなく上洛の中途に美濃国で病死したが、子の常将・常近は許されて旧領を安堵され、房総はおちつきをとりもどしていった。忠常の子、常将は「千葉小次郎、総州の千葉に居り因て氏とす」とある(松蘿館本『千葉系図』)。彼より以後、常永、常兼、常重と相伝している。上総の大椎、下総の大友・千葉によったとおもわれる。この間、河内源氏の源頼義・義家と結んで前九年、後三年の役に活躍し、在庁職に任じた。惣領を中心とする一族の武士団としての結合が強まっていった。
常重は、大治元年(一一二六)、上総の大椎より下総池田郷猪鼻台の地に築城し居城したと伝える。
2―204図 猪鼻城とその守護神
その城下の様子は、「大治元年丙午六月朔。初めて千葉を立つ、凡そ一萬六千軒也。表八千軒裏八千軒。小路表裏五百八十余小路也。曽場鷹大明神より御達報稲荷の御前まで七里の間御宿也。曽場鷹より広小路谷部田まで国中の諸侍の屋敷也。是には池田鏑木殿の堀の内あり。御宿は御一門なり。宿の東は円城寺一門家風在しまし。宿の西は原一門家風在しまし。橋より向御達報までは町人屋敷也。これによって河向を市場と申す也。千葉の守護神は曽場鷹大明神。堀内牛頭天王。結城の神明、御達報の稲荷大明神、千葉寺の竜蔵権現これ也。弓ぜん神と申すは妙見、八幡、摩利支天大菩薩これ也」(『千学集』)。ここに述べられている城下の概観は『千学集』の書かれたころのものであろう。しかし、築城と都市計画という面からみれば、城周辺の要所の侍屋敷、守護神の配置、宿場、職人集落などの基本的なものはあまり大きな変化はないであろう。
曽場鷹大明神・堀内牛頭天王・結城の神明・御達報の稲荷大明神・竜蔵権現・妙見・八幡・摩利支天などの神仏は陰陽道の見解にのっとったものである。
堀内牛頭天王社から、鬼門に曽場鷹大明神、裏鬼門に御達報稲荷、直南に竜蔵権現、真西に結城の神明、北西の方角に北斗山金剛授寺(のちの妙見宮、八幡神・摩利支天も合祀)を配して神仏の加護を祈請したとみることができる。
妙見は、常重により、大椎よりいったん千葉寺の宮(竜蔵権現か)に奉安された。ところが二男の胤隆がこれを盗みだし、長洲町の三隅田に埋めたのをみつけだし、城中の主殿に安置した。やがて「屋形の堀内」(城の外郭)に社殿を造営して移した(『千学集』)。その位置は不明であるが、千葉大学医学部付属病院の正門を入ったつきあたりの円墳が今でも神聖な場所であるとされるところから、妙見を安置したところにふさわしくおもわれる。この妙見の宮を中心にして、かつての猪鼻城の大手口にあたる、千葉大学医学部付属病院の裏手に展開する、北斗七星をかたどった七つの塚の点在がいきてくる。ここは牛頭天王を祭っているところから七天王塚とよんでいるが、妙見のまもりにあずかろうとした独特のプランである。この塚については、河内の観心寺の金堂を中心とした独特のプラン(註39)、七星曼荼羅を地上に表現したという例を思いだすのである。
2―205図 猪鼻城内の妙見宮祉と七天王塚の周辺
(『千葉県の歴史散歩』)
もう一つ、ここは将門の七騎武者を葬った墓であるとする伝説もあり、妙見と将門との結びつきがここにもみられる。妙見の祭祀は相伝され、嫡流の管理するところであり、族的結合の中心であったとおもわれる。『千学集』によれば、はやいころの祭は大夫八人、乙女四人が神楽を奉納する程度であった。北斗山金剛授寺もまた、こういう管理の対象になった寺であろう。
常胤にいたって頼朝の鎌倉幕府樹立の支柱となり、千葉の庄を中心に勢力を張って下総守護職に補任されるということがあり、その威勢は大きなものとなった。
惣領制的結合の中心として、根本所領に祭る守護神の祭祀が重視され、氏寺である北斗山金剛授寺が妙見の別当寺となった。金剛授寺の座主は嫡流の系統のものがなるならわしであった。千葉氏の政治的・経済的な威勢は、文化にも及び、始祖良文と崇神妙見の祭祀は、城下の大きな祭礼となり、庶民の成長のなかで庶民的な様相を濃くして盛んになったものであろう。
永正六年(一五〇九)といえば、足利幕府の権威がおちて一地方政権と化していた一〇代将軍義稙の時代で、文化の地方への流入、庶民文化の形成が中央・地方ですすんでいた。
この年の七月、連歌師の柴屋軒宗長が、千葉城下の妙見の祭礼を見物して、その紀行である『東路のつと』にしるしているが、千葉の崇神妙見の祭礼で七月十四、十五日の両日、妙見の使いである三百頭の早馬が祭の始まりを告げてあるく勇壮なさまを見物している。十六日には延年の猿楽が夜にいたるまでつづいていたという。
妙見の祭礼が、古い氏神以来の様式を残しながら、千葉の崇神妙見となった今日の繁栄を語るがごとく、早馬三百頭の行進で始まる勇壮な祭礼の興奮が伝わってくるようである。
崇神妙見と馬の存在は千葉氏発展のもとを暗示していよう。
この祭礼は、毎年七月十六日から二十二日まで七日間行われた。七日間とするのは、北斗七星の七にちなんだものである。七月十六日に祭礼を始めるのは常重が大治二年(一一二七)のこの日から、第一回目の祭礼を行ったという伝承にもとずいたものである。
京都の祇園祭の影響をうけたこの夏祭の興奮は七日間に及ぶ。
七日目の夜、祭礼は最高潮となって猪鼻城下にひそんでいた全ての悪霊や害虫は居場所を失って退散させられ、神輿が海に追いはらって生命の安全と豊作を祈る祭典は終わる。ここには庶民の祭礼の呪術的・季節的祭の性格が濃い。妙見の祭礼を広くみわたすと、相馬の野馬追い・秩父の夜祭がこれにあたる屈指の祭礼である。
相馬の野馬追いは相馬氏の祖である将門が、下総小金原で野馬を追い武勇を練ったことに始まる勇壮な祭である。相馬妙見三社を奉じて雲雀ケ原に集った武者たちは野馬追い、神旗争奪戦を行う。七月下旬の三日間に相馬地方一帯にくりひろげられる時代絵巻である。
秩父市の大宮にある秩父神社の祭は秩父夜祭とか妙見様祭ともよばれて親まれている。
十二月二日の、重要民俗資料に指定された傘ぼこ二台と屋台四台が市内を引き回され、三日の晩のお旅所へのご神幸が最高潮をなす。いかにも星辰の祭礼にふさわしい澄んだ冷気と星辰の輝き、人々の興奮、神と人との自在の交流という性格をのこしている。しばしば禁制された北辰の祭の熱狂も想像される。
妙見の像で、千葉氏にかかわるものは、香取郡東庄町の役場にある東氏につながる東保胤旧蔵の妙見像であろう。木像で玄武のうえにたち、室町時代の作と推定される。市内では大宮町栄福寺の妙見堂のもの、吾妻町光明寺のものは、いずれも江戸時代の作である。そして、玄武にたつ妙見であるのが共通点である。市内の平山町にある東光院大金剛寺、この寺の祀る本尊七仏薬師は室町時代の作であり、特に破軍星薬師は、千葉一族の尊崇をうけた。『千学集』は、この事情をふまえてかかれている。
2―206図 右は香取郡東庄町の東保胤氏旧蔵の妙見像
左は千葉市大宮町の栄福寺所蔵の『妙見縁起絵巻』の妙見画像
また栄福寺には「千葉妙見縁起絵巻」二幅が伝わっている。本庄伊豆守胤村がえがかせたもので戦国時代の作品である。
康正元年(一四五五)、千葉胤直は原胤房の叛乱にあい、佐倉の寺崎城によって、ここに妙見を安置したまま多古に逃れた。胤直の甥で金剛授寺の座主であった覚実法印は、この妙見を金剛授寺に移して寺の客殿に初めて祭った。妙見はこれより以後、ここをうごかず祭られ、千葉氏の滅亡にもかわることはなかった。ここは、妙見寺、妙見宮、妙見社とよばれ、明治維新の後、千葉神社となり、祭神を天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)とさだめて現在に至っているが、妙見はどうなったであろう。
2―207図 千葉神社
明治三十七年(一九〇四)、神社が出火により焼失するということが起こった。翌朝、無惨に焼死した神主が発見され、その右手には七星剣がしっかり握られていた。
社殿の奥深くひっそりと祭られた妙見の像は失われたが、神主にまもられて残ったこの七星剣は、現在も社殿の奥に秘蔵されているという。
神社の紋章として月星紋や九曜紋がいまでもつかわれているのは、妙見信仰に由来するところからであろう。また、めまぐるしい政治・経済の変転のなかで「千葉妙見の祭」が、ずっとつづいてきているのは、ながい歴史のなかで、妙見の性格が変貌し、一つの文化伝承を形成して人々の暮しのエネルギーの源泉となったからであろう。
(土屋賢泰)