はじめに

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表写真 千葉常胤の像(彫刻 安西順一)

 ここでいう中世は、源頼朝が治承四年(一一八〇)伊豆で兵を挙げ、平家を滅ぼし、鎌倉に初めて幕府を開いてから、約四百年後、豊臣秀吉が天正十八年(一五九〇)小田原の北条氏を征服して、徳川家康が関東に入国したころまでの間である。
 時代からいえば、だいたい鎌倉時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代に相当する。
 政治、社会の面からすれば、武士中心の封建体制である。それも鎌倉時代は、荘園を基盤にした地方豪族の武士を、将軍や執権が御家人として統治する組織であった。
 しかし、室町時代になってからは、南北朝の対立抗争、幕府統制力の薄弱、商品経済の発達などから大名領国制が成立し、それを単位とした封建体制に変わってきた。
 そして、特に、一四六七年京都に勃発した応仁の乱が、しだいに全国に波及してからは、当時の下剋上の風潮とあいまって、世はまさに戦乱に明け暮れする戦国時代となった。
 この間、下級の武士、下賤の土民、足軽から大名に成りあがる者も多かったし、しかも彼らは実力本位で、由緒ある家格や伝統を否定したから、日本の社会は、この時代に大きく改造されたとみることができる。
 しかし、百年にわたるこの戦国時代も、やがて有力な大名によって、分国ごとに強大な武力で統治されるようになった。そして、京都に上って天下を統一しようと進撃をつづけた。その成功者が織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康である。

3―1図 猪鼻山の千葉城(郷土館)

 要するに、中世は武士中心の封建社会である。したがって、中世の歴史は武士の動勢を軸にしてみなければならない。
 房総や千葉の歴史もまた、いま述べてきた日本史全体の発展と無関係ではない。むしろ非常に深い。
 例えば、千葉氏と千葉、あるいは下総との関係がそうである。それも千葉氏については、幸いにも史料があって、ある程度、その実態が把握できるからである。一例をあげれば、平高望の流れをくむ千葉氏一族は、平安時代の初期から、下総の各地に荘園を開発してきた。その富裕な経済力を背景として、猪鼻山の居館に在った千葉常胤は、敗残の頼朝を援助して、鎌倉に封建社会成立の基礎を築かせた。あるいは、小田原落城によって千葉介は北条氏と共に滅亡した。こういうことはわかる。
 しかし、一般民衆については、その生活を具体的に知る史料はほとんど見当たらない。彼らは荘民として荘園の耕作、あるいは牧馬、魚取り、簡単な手工業など生産労働に励んでいたことであろう。だが、悲喜交々の人生については知る由もない。まことに残念だが何ともしがたい。
 ただ中世の歴史をみて、現在の千葉県、千葉市の発展は、もちろん原始社会からの住民の努力の結果ではあるけれども、中世にこそ、その基礎づくりがなされたといっても、決して過言ではないと思う。
 いま、猪鼻山の千葉常胤の館(たち)のあった所にそそり立つ、近世城廓の様式をもった郷土館の屋上に立って、足下に兵(つわもの)どもが夢の跡を偲び、高層ビルの林立する市街の発展を展望するとき、千葉市民のひとりとしての「おのれ」を歴史に位置づけて、うたた感懐の無量なるものをおぼえる。