天皇中心の中央集権的国家組織であるが、一般民衆にとって最も関係深い制度は、班田収授法と租庸調の税法である。これも唐制を模したものであるが、わが国の方が民生安定を目的とした点では、はるかに理想的である。
しかし、その実施はなかなか容易ではなかったらしい。国、郡、里の行政区画が形式的には整然とできていたとしても、戸口の調査、戸籍の作成、生死の確認など大変な仕事である。その上、人口が増加すれば、それに相当する耕地をあてがわなければならないが、当時の開墾用具などからしても、とうてい間に合うものではなかった。
そうした事情は、はやくも元正天皇の養老七年(七二三)四月、太政官の奏上でもわかる。
この頃百姓(おおみたから)が多くなったが、田地がせまい。そこで全国の人民にわり当てて荒地を開墾させて耕地をふやす。そうして開墾した者には多少に限らず、三代の間、その土地の所有を認める。この奏上は認可になった。
(『続日本紀』巻第九)
いわゆる三世一身の法が実施されることになったのである。
更に、それから二〇年後の、聖武天皇の天平十五年(七四三)五月には、次のような詔が出された。
養老七年に三世一身の法を認めたが、結局三代たてば政府に返さなければならないから、農夫は怠ってせっかく地を開いてもまた荒れてしまう。だから、今後は開墾地は永久にその人の私有にする、と。
(『続日本紀』巻第一五)
つまり、永代私有の法にしなければ、田地の拡大も生産の増加もはかれなくなったのである。
そして、ひとたびこの法が認められると、皇族、貴族、大寺社、地方の官司・豪族は競って墾田を開発し、しだいに私営田領主に成長していった。
民衆生活の安定を理想としたとはいえ、その生活は苦しかった。税が重いからである。租は量としてはともかく、調とともに中央への運搬は非常な苦労であった。たとえば、
和同七年(七一四)二月、上総国もうす。京を去ること遙遠(ようえん)にして貢調極めて重し。請う細布に代えて頗る負担を省(はぶ)かん。其の長さ六丈広さ二尺二寸、毎丁二丈を輸し三人を以って端を成さむ。之を許す。
(丁は二〇歳から六〇歳までの男子。輸は税を納めること。端は布の反である。布は麻。)
(『続日本紀』巻第六)
とあるが、調としての布も細布にすれば重量が三分の一ほど軽くなる。このように京への貢納の運搬は重い負担であった。その間の旅の苦痛もさることながら、家郷においては生産労働に支障をきたす。
貢納運搬の労役もふくめて、農民に最も苦痛であったのは庸、つまり公の労働に従事させられることであった。平城京の造営といい、国分寺の建立といい、その労働力の徴発は大変なものであった。
平城京の造営に関しては、元明天皇の和同四年(七一一)九月に
この頃、聞くところによると、諸国から徴発した民衆が、都造りの労働につかれ、きらって逃亡してしまう者が多い、いくら禁止してもやまない。と記録されている(『続日本紀』巻第四)。
また、翌五年の正月には
諸国の役民(えきみん)(役は庸と同じ)が郷里に帰る日、食糧がなくて道路や溝で餓死している者が多い。国司らは食料を与えてよくめんどうをみなければいけない。もし死者が出たら、しばらく埋葬しておいて、その姓名を記録して本籍に知らせよ。
と、詔を出している(『続日本紀』巻第五)。
いかに悲惨な状態であったかが推察できる。
また、称徳天皇の天平神護元年(七六五)には、下総・常陸・上野・下野の東国が旱魃(かんばつ)であった(前同書巻第二六)。
神護景雲三年(七六九)三月の条には、「下総国が飢饉なので食糧を恵み施こした。」という(前同書巻第二九)。
おそらく、このように旱魃や洪水や蝗虫の害などがあって、穀物の生産・収穫が少なく飢饉におちいることがたびたびあったことであろう。
更に、同年八月の条には「下総国〓嶋(さしま)郡(茨城県の西南部)に火事があって、穀六千四百余斗を焼いた。」とある(前同書同巻)。
こうした災難のほかに、下総など東国の人々は蝦夷征伐にもかり出され、また、とくに防人(さきもり)として遠く筑紫の海岸防備の任につかされた。これは本人にとっても、家族や村里にとっても悲劇であり、打撃であった。
『万葉集』巻二十に防人の歌が多く載っている。動員されたのは主として上総・下締・常陸・上野・下野・武蔵・相模などの東国の青年であった。
天平勝宝七年(七五五)の防人の歌はみな庶民の歌である。庶民がどういう人々であったか明かでないが、どの歌にも庶民の素朴純真な心情が切々と表現されている。
房総の防人の歌は、君津郡、安房郡、山武郡、長生郡、香取郡、海上郡、印旛郡、千葉郡にわたっている。
その一首の
4387 千葉の野(ぬ)の 児手柏(このてがしは)の 含(ほほ)まれど
あやにかなしみ 置きてたか来ぬ。
は、千葉郡(こほり)の大田部足人(たりひと)の詠んだ歌である。足人がどんな人かわからない。しかし、これなどは例外で、安房、上総、下総の防人の歌一五首はほとんど上丁(かみつよぼろ)のものである。なかには助丁(すけのよぼろ)のもある。
養老令の軍防令の防人に関する項に、「防人で赴任する時、もし家人(けにん)奴婢及び牛馬をつれて行こうとする者は許す。」とある。
丁(よぼろ)は使用人の意味である。だから右の家人に当たるもので、上丁も助丁もともにその家の使用人で、ただ地位の上下を示すだけのものではないだろうか。軍団編入の時の地位を示すとも考えられる。戸主が直接防人として赴任する、例えば大田部足人のように。しかし家人を代行させる戸主もいたのであろう。それは相当広い田地を所有している郷村の有力な家であろう。
さきにみたように、一般に民衆は生活が苦しいから、課役(税)をのがれるために、自分の田地を有力者、特に村の地主や豪族に寄附し、その保護の下に家人または奴婢として生産に従事したのであろう。また、浮浪人として何処かの豪家に雇われた者もあろう。上丁、助丁はその事実を証明しているように思われる。
逆にいえば、「勢力の家は百姓を駈役(くえき)し、貧窮の百姓は自存するに暇あることなし。」(『続日本紀』巻第二六)と、いうように、勢力の家が永代私有の法以来、中央の貴族だけでなく、地方の農村にも成立してきたであろう。
そして、地域的にみるならば、東国は中央政府の威令の行われる東の限界ともいえる。そういう条件からして、律令制の基盤ともいうべき班田収授制の崩壊につれて、いちはやく東国に有力な地主、つまり私営田領主が成長してゆくのである。そしてこれが東国武士団発生の基礎的条件に発展する。そして房総はまさに、その一地域に該当するのである。その一例として、延暦二十四年(八〇五)千葉国造大私部直善人(おほきさいべのあたいよしと)が地方官として外従五位下を授けられていることをあげることができる。千葉国造の任命は五世紀の初期かと推測されるが、その国造がひきつづいて、千葉地域あたりに、地方豪族として、平安初期に勢力を持っていたからであろう。伝統的なそして公的な国造の子孫以外に、無名の私営田領主が有力者として、下総や上総の各処に、律令制の動揺につれて、根を張っていくのである。新らしい歴史は徐々につくられてゆく。