千葉とは草木の繁茂する野原を意味した。貝塚、古墳が多く分布している点からしても、原始時代から人々の生活し易い土地であったことが想像される。
平安時代の初期、忌部広成が著わした『古語拾遺』には、この土地は麻(長い間の庶民の衣料)がよく成育したので、国名を「ふさ」(総)と名付けた、と書いている。
おそらく律令制の布かれたころから、一般農民は生産に努力して耕地を開発し、更に三世一身法から永代私有法になるにつれて、里長や郡司は私営田の領主にまで成長する者もでてきただろう。千葉国造の大私部(おおきさいべ)などはその一例であろう。ことに国司は、その権力にものいわせて墾田の開発に勢力を傾けたであろう。ある意味での豪族でなければ、開発に必要な用具の所有と、重税のため浮浪化した民衆を労働力として雇用することはできない。その意味で土豪的存在は無視できない。
さきにみた『倭名類聚鈔』(九三〇年にはできていた)の巻五に房総の国郡をあげている。
下総国 国府在葛餝郡、行程上三十日 下十五日 管十一 田一万六千四百三十二町六段二百三十四歩、正公各四十万束 本稲百二万七千束 雑稲二十二万七千束 葛餝 加止志加 千葉 知波 印幡 匝瑳 海上 宇奈加美 香取 加止里 埴生 波牟布 相馬 佐宇万 〓島 佐之万 結城 由不岐 豊田 止与太
安房国 国府在平群郡、行程上四十四日 下十七日 養老二年割上総国四郡置此国 管四 田四千三百三十五町八段五十九歩、正公各十五万束 本稲三万二千束 雑稲五千束 平群 倍久利国府 安房 如国 朝夷 阿佐比奈 長狭 奈加佐
上総国 国府在市原郡、行程上三十日 下十五日 管十一 田二万二千八百四十六町九段二百三十五歩、正公各四十万束 本稲百七万千束 雑稲二十七万千束 市原 伊知波良国府 海上 宇奈加美 畔蒜 阿比留 望〓 末宇太 周准 季 天羽 阿末波 夷〓 伊志美 長柄 奈加良 山辺 也末乃倍 武射 埴生
これによると、田の面積は上総、下総、安房の順序である。下総は茨城県の西南部にわたっている。高望王が平姓を賜ったのは寛平元年(八八九)、『倭名鈔』の成立は承平年間(九三一~三七)であるから、その間約五〇年近くある。したがって、ここに記録されている両総の耕地面積には、高望やその子息らの権威によって開発された耕地も含まれているとみてよかろう。
下総台地には樹枝状の谷田(やつだ)がくいこんでおり、これは古くから耕作され、周辺の台地に聚落が発達して、郷村が成立していたろう。台地では畠作や馬の放牧もされて、ある程度富裕な郷村領主が勢力をもっていたにちがいない。しかし、平高望の子孫は国司の権力をもっていたので、在来の郷村領主を合併し、しだいに荘園を拡張し、諸種の特権を獲得していった。将門の乱、忠常の叛は、その一過程で起こり、結果的には千葉一族の荘園支配権を増大することになった。
もちろん、地方豪族が政治の紊乱とともに武士に成長しても、まだ中央政府から位を授かることは名誉としたので、荘園を皇族や貴族に寄進して、栄誉を得ると同時に領有権の保証を求めることも多かった。
千葉庄もその一つである。『倭名鈔』巻六に、下総国の一一郡について各郡ごとに郷名をあげている。それによると、千葉郡(ごおり)には、千葉(黒砂、弥生穴川付近か)、山家(誉田、平山付近か)、池田(千葉寺、亥鼻市場付近か)、三枝(さくさ)(作草部付近か)、糟〓(かすり)(加曽利付近か)、山梨(四街道、旧旭村付近か)、物部(物井付近か)の七郷があった。山梨、物部は印旛沼に注ぐ鹿島川流域である。千葉、池田、三枝、糟〓の四郷は、都川と葭川流域の水田地帯と台地の住宅地帯を含むもので、十世紀においては、今の千葉市の中心区域であった。この四郷を含んだ周辺地域を含めて千葉庄が成立したのであろう。そして、この千葉庄は鳥羽天皇の皇女障子内親王に寄進されて、八条院の御領となっているが、しかし、その管理の実権は千葉氏が掌握していたので、実際は忠頼、忠常のころに千葉氏の称号、また千葉介の呼び名が起こったものであろう。
市原市高根出身の八代国治博士(一八七三~一九二四)は、荘園研究の先覚者として日本歴史学界の偉大な功績をあげているが、博士の『房総荘園目録』には、中世下総の国の荘園や庄郷が多くあげられている。皇室御領荘として室町院、すなわち後堀河天皇の皇女暉子内親王御領の葛西御厨をはじめ一般荘園として、菊多庄、印西庄、千葉庄、千葉北庄、堀籠郷、風早庄、桜井郷、本庄郷、高田郷、桑島庄、海上庄、埴生庄、松沢庄、南条庄、北条庄、幸島下庄、大和田郷、大須賀保内毛成・草毛両村、宮和田郷、遠山方御厨、手賀、ひかしかた布施、菅生庄中須賀県、牧野村、大崎村、観音村などをあげている。
3―4図 古代の荘園分布図 付中世の荘園分布図
(西岡虎之助編『日本歴史地図』による)
このほかに、『吾妻鏡』第六、文治二年三月十二日の条によれば、頼朝の知行国である下総、信濃、越後の三国内における荘園の中に乃貢(のうげ)(田租)未済が多かったので、公家から催促の注文が頼朝に要求されてきた。その目録によると下総国における乃貢未済の庄は次にかかげるものであった。
殿下御領 三崎庄 関白近衛基通の所領、現在銚子市・後に頼朝が千葉常胤に賞与、常胤は胤頼にゆずる
同前 大戸神崎 現在香取郡
千田庄 領家不明、判官代親政は治承四年常胤に虜にさる 香取郡多古地方
三井寺領 玉造庄 香取地方
熊野領 匝瑳南条庄 熊野神社領で匝瑳地方
成就寺領 印東庄 印旛沼東部
延暦寺領 臼井庄 印旛沼南部
八条院御領 千葉庄 都川、葭川流域から海岸にかけた地域
院御領 船橋御厨 後白河院領で船橋市
同前 相馬御厨 利根川をはさんで北は小貝川から南は手賀沼にわたる広い地域
八条院御領 下河辺庄 江戸川の上流地域
按察使家領 豊田庄及松岡庄 西園寺家領か、後に後深草中宮、更に東二条院藤原公子の所領となる。茨城県
二位大納言 橘庄、木内庄 四条隆房の所領。橘庄は東胤頼の所領となる
法漸寺領 八幡庄 市川市八幡
公家のこの要求に対して、頼朝は早速、「平家追討のため乃貢遅滞したが、今迄の分は免除して、今年からは時期をたがえず送納する」と返事している。
以上の諸庄は名義上は皇族、公家、寺社の所領であるが、実質的な管理経営は主として千葉氏が行っていた。それは『吾妻鏡』巻一、治承四年十月二十三日の条によって証明される。つまり、源頼朝が富士川の合戦後、相模の国府において第一回の功賞を行った時、千葉常胤は本領の所有権が認められ、新たに所領を賞与され、今までの地位が確認されたからである。治承四年は文治二年を去ること五年前である。
さて、この時常胤の相伝の所領は下総、上総、常陸、武蔵の四カ国内の庄郷と、陸奥国内の五郡、それに肥前国の小城郡であった。だから、この時の恩賞以来、これらの祖先伝来の所有地はもちろん、国衙領でも権門勢家の荘園でも、千葉介とし誰はばかるところなく、自由に支配することができるようになった。有名無実な律令制に反発を感じていた地方豪族としての武家の目的は漸く達成されたのである。
それはともかく、本領を安堵された常胤は、下総の所領の一部を子息たちに分与した。次男師常には相馬郡を(号 相馬次郎)、三男胤盛には千葉郡武石郷を(号 武石三郎)、四男胤信には香取郡大須賀郷を(号 大須賀四郎)、五男胤通には葛飾郡国分郷を(号 国分五郎)、六男胤頼には香取郡東庄三十三郷(号 東六郎大夫)を与え、長男胤正(号 下総太郎)には、残りの相伝の所領を相続させた。下総の重要拠点は子息で堅めた。
平高望、良文以来の下総における荘園の開発と経営は、常胤の時ここまで発展し、ほとんど完全に下総一国を千葉一族で支配するようになった。
ただ、下総国内の三〇ばかりの庄郷のうち、問題が多かったのは、相馬御厨である。『倭名鈔』によると、相馬郡内には相馬郷、布佐郷など六郷が含まれている。南は手賀沼の内部から北は小貝川に至る広大な庄園である。『千葉大系図』の上総介常時(常晴)の條に、「下総国相馬郡は良文以来相伝の領なり。」とある。そして、天治元年(一一二四)、常晴は「故あって相馬郡を千葉介常重に返し与えた。」と記している。常重は大治元年千葉城に移ってから五年目に、相馬郡を伊勢大神宮に寄進している。本拠の千葉庄を去ること遠い重要な荘園を、寄進することによって擁護する心意であったと推察できよう。寄進とともに常重は荘園管理の下司職(げししょく)となった。常胤は満一六歳の年少でこの下司職を父から譲られた。ところが、父が年貢未納という理由で、国司の藤原親通に所有権を奪われてしまった。ついで、源義朝が登場して常重から相馬郡の譲状を奪いとった。そしてあらためて、義朝は神宮に寄進した。常胤は下司職を守持するため未納物を納入したので、久安二年(一一四七)二九歳の時、相馬郡司に任じられて郡務を親裁することになったので、またあらためて神宮に寄進した。義朝と常胤の権利の衝突がおこる。
ところが、平治の乱(一一五九)で義朝が敗死すると、相馬御厨は朝廷に没収されたので、常胤は相伝の所領であると主張した。そこへ常陸の源義宗が現れて自己の所領であることを論証して、相馬庄を内宮外宮に寄進した。下総権介の常胤は義宗の非法を責めたが、容認されなかった。しかし、時は過ぎて常胤の勢力は強大となり、頼朝の第一の御家人となったためか、常胤の二男師常が相馬二郎として相馬御厨を直接支配するようになった。
この相馬御厨をめぐっての抗争は『千葉県史料中世篇、県外文書』(千葉県発行)「相馬御厨」関係文書によって詳細を理解することができる。
いままで考察してきたように千葉氏は、良文以来、常胤に至るまでの間に、下総に数十の庄郷をもち、地方豪族として不動の地位を確立した。その本拠はもちろん千葉庄を基盤とした千葉城である。
しかし、船橋御厨、八幡庄、下河辺庄、葛西庄、豊田庄などは、必ずしも千葉一族の制圧下にあったとはいえないようである。
また、荒蕪地もまだ多かった。恰好の良馬育成地ではあったろう。だが、開墾すれば穀物の生産によって富裕となれる。このことは単に千葉氏にとって有利なだけではなく、千葉氏を御家人とする鎌倉将軍にとってもまた極めて重要なことであった。そこで、『吾妻鏡』第九、文治五年の条には、「安房、上総、下総などの国々には荒野が多いので、開発して乃貢(のうげ)を滞らないよう地頭に仰せられたい。」とある。おそらく、千葉氏はこの命を受けて、浪人らをかり集めて荒野を開拓し、幕府を援助するだけでなく、自らの経済的、軍事的勢力を増強したことであろう。
同族の上総介もまた大国上総の開墾に力を注いだことであろう。
こうして、平安末期から鎌倉初期にかけて、両総の田畠はふえ、戸口は増して現在の房総発展の礎(いしずえ)は築かれた。
もちろん、上総介、千葉介だけの権勢だけではない、開墾といい、生産といい、一般民衆の生産労働、事ある時には武器を持って立つ郎従の基礎的な力にまつところ、また大きいといわなければならない。
ともあれ、千葉常胤は累代の伝統的地盤に立って、源頼朝の封建体制の創設を助け、下総の守護職に任じて社会秩序の安定を確保することに精力を傾けた。その城下が現在千葉市の中心地であるが、その歴史的意義もまた大きい。それはすでに述べたことではあるが、千葉氏、特に常胤と頼朝、鎌倉幕府との関係を考察することによって、いよいよ明らかになるし、同時に感慨深いものとなろう。
最後に、福田豊彦氏の高著『千葉常胤』(人物叢書吉川弘文館)が出版された。この項では、同氏の「下総国荘園郡郷図」を引用する。
3―5図 下総国荘園郡郷図 (福田豊彦『千葉常胤』による)