第五項 千葉氏と北条氏

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 源頼朝は封建体制を創設した大政治家である。しかし猜疑心の強い個性も関係してか、創設過程において兄弟、功臣を犠牲にした。頼朝のために惜しむが、しかしそれも変革期のなせる歴史の必然ともいえよう。
 二代将軍頼家は在職五年で伊豆修禅寺に幽閉され、三代の実朝は一七年目に公暁に殺害されて、将軍家の源氏は滅亡した。
 実朝は建仁三年(一二〇三)一二歳で将軍となった。少年のためか、このとき新しく執権職が設けられて祖父北条時政が就任して政務を補佐した。これからは将軍とは名のみで、執権職を代々北条氏が継承して幕政を左右するようになった。
 北条氏は独裁政権を樹立するため種々の策謀をこらした。まず将軍職の制約である。頼朝の死後僅か三カ月にして、北条時政、義時、大江広元、三浦義澄、和田義盛ら一三名の合議制によって、総ての訴訟を裁決することにした。明らかに頼家の独裁制排除をねらったものである。
 十月には常胤らの有力な御家人が頼朝の側近政治家であった梶原景時を弾劾して鎌倉から追放し、翌正治二年(一二〇〇)一月には殺害してしまった。御家人の景時への反感であるが、北条氏にとって、この側近政治の打破は有利であった。あるいは、この事件も内密には北条氏の示唆によるものであったかも知れない。
 次は、頼朝以来の有力な御家人の排除である。何かに事よせて実行している。建仁三年(一二〇三)には配流の頼朝を世話した比企氏をまず槍玉にあげて滅し、翌年には将軍頼家を修繕寺で殺害した。元久二年(一二〇五)には畠山氏を、建保元年(一二一三)には和田氏を滅している。かつて頼朝上洛の際、後陣は宿老の常胤にすべきだと直言した畠山重忠とその子重保の攻殺には、事もあろうに大須賀、国分、相馬、東の千葉氏一族をもって当たらせている。北条氏は敵をもって敵を制したわけである。千葉一族にとっては辛いことであったと推察するが、しかし難はのがれている。広く各地に勢力を扶植している千葉一族には北条氏も手を下すことはできなかったのであろう。
 千葉氏は依然として下総国の守護職を保持し、北条氏には忠誠を尽くしている。承久元年(一二一九)将軍頼経の鎌倉入りのときには、千葉介胤綱は狩装束を着して警護に当たっている。承久三年のいわゆる承久の乱では、胤綱は東海道大将軍(従軍一〇万余騎)の一人として京都に攻め上っている(『吾妻鏡』巻第二五、承久三年五月二五日の条)。そして勇戦し功名をあげている。六月二十五日には六波羅で大納言忠信卿を預って鎌倉に送る重要な役目を仰せつかった。だが、胤綱は鎌倉へ下る途中、遠江国舞沢から許して帰京させている。それは忠信の妹、西八条禅尼は右府将軍の後室(実朝の未亡人)であったので、政子にそのことを話して赦免されたからである(『吾妻鏡』巻第二五 承久三年八月一日の条)。
 幕府は朝廷方の公家、武士の所領三千余箇所を没収して、政子は、これを軍士の勲功の多少に応じて行賞している。もちろん、大将軍胤綱も厚く賞与されたことであろう。
 この胤綱は安貞二年(一二二八)二一歳の若さで死去、東六郎大夫胤頼もまた七三歳で卒去している。こういうこともあってか、北条氏は千葉氏を重視はしているが、内心は相当けむたく思っていたのではないだろうか。
 頼朝が死去した翌年の元旦の宴会の開催者は北条時攻で、常胤は二日になっている。以前は元旦は必ず常胤であったが翌年は二日と地位が軽ろんぜられている。もっとも、その後は鶴岳社参はあっても宴会はほんとど中止になっている。
 それでも、執権泰時の安貞二年将軍が駿河前司義村の田村山庄に渡御して、田家の秋景色を遊覧されたときの行列には、上総太郎、大須賀左衛門尉、印東太郎、海上五郎、相馬五郎、東六郎ら千葉一族の名はみえるが、五月二十八日に胤綱が他界して二カ月も経ないためか千葉介の名は列らねられていない。
 寛喜二年(一二三〇)一月二十六日、禁中滝口の警固が無人であるから、前々から幕府の御家人で経験のある武将の子息を一人ずつを差し遣わして欲しいとの沙汰があったとき、幕府は千葉氏の子息も推挙している(『吾妻鏡』巻第二七、寛喜二年正月二六日の条)。嘉禎元年(一二三五)二月十日五大尊堂が造立されたので将軍が執権を伴って渡御されたとき、大工に贈物をしているが千葉介時胤は馬一匹を進上している。
 暦仁元年(一二三八)将軍の六波羅渡御のときには千葉八郎時胤も供奉しているし、また、執権の鶴岳放生会の供奉などにも度々、千葉一族は参加している。しかし、頼朝の在世時にくらべれば、その関係は甚だ薄い。
 さて、北条氏が承久の変で京都の朝廷方に対し、峻厳苛酷な処置をとったことは、律令体制を根本的に打破して、武家中心の統治体制を確立しようとする意図によるものであろう。事実、これを機会として全国の荘園を基盤とした武家はほとんど北条氏の御家人となり、一元的な幕府体制が定着した。これは平安末期からの地方豪族としての武家の所領支配と独立を確保しようとする要望とが、頼朝時代より一層強固になったためであろう。また、北条氏の独裁権掌握の野望を、これら地方豪富層の武将の要求によく同調させた結果でもあろう。
 この間にあって、千葉氏は依然下総介として下総の守護職となっているが、分家も次第に多くなって、それぞれに独立的勢力の増大を図ったため、宗家は相対的に弱力化し、一族の統制も困難になりつつあった。また、地方に北条氏に加勢する諸豪が抬頭してきたので、源家随一の御家人であった千葉氏も軽視されるように変わってきている。
 北条氏の全盛期は泰時、時頼の時代であった。時宗はよく御家人を統率して元寇の国難を突破したが、これを契機として「所領」を媒介とした主従関係にひびが入り、反幕的傾向は高まってきた。こういう機運にもかかわらず、執権高時は田楽や闘犬に打興じて失政を重ねた。この機をねらって幕府打倒の正中の変(正中元年(一三二四)九月十九日)が起った。密計は漏洩(ろうえい)して失敗に帰したが、西国の武将をはじめ、東国でも上野(こうづけ)の新田氏、下野の足利氏など源氏の流れをひく諸豪が、後醍醐天皇の倒幕運動を援助して遂に鎌倉幕府を滅してしまった。時に元弘三年(一三三三)五月二十二日、高時に従って自刄した家来三一七名とか。
 正中の変では千葉介貞胤が高時の輩下として一族とともに京都征討軍として活躍した。
 更に、元弘の変では高時は東国の武士を総動員して、上洛させているが、その中には千葉大介貞胤も加わっているが、『太平記』では、「外様(とざま)の人々」と千葉氏を称している。この一事は、北条氏が千葉氏の存在を重視しながらも、いつの時からか「外様」の中に加えて冷遇していたことを示すものである。
 それかあらぬか、新田義貞が鎌倉に迫ると、関東一円の豪族は北条氏を見限って、多くは新田氏に加勢して、その兵力は数十万に達したというが、その中には千葉介貞胤もまた味方している。勇戦して幕府を倒滅した後も、新田勢として各地で奮戦し、義貞に忠勤をはげんでいる。
 とにかく千葉氏は、頼朝支援の一大勢力であったために、北条時代には敬遠され所領を侵略されたが、最後には新田氏に加担して北条氏を滅亡させてしまった。