第一項 元弘の変と千葉介貞胤、千田太郎

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 千葉介貞胤(一二九一~一三五一)は一七歳で家督を相続し、正中の変(正中元年=一三二四)には、北条高時の征西軍に参加して上洛し、勇戦したことは既にみた。
 元弘の変(一三三一~三三)のとき、貞胤は京都におり、元弘二年(一三三二)幕府が後醍醐天皇を隠岐に遷し奉るとき、郎党を率いて天皇を隠岐まで警固している。五月には花山院師賢卿の身柄を預って東海道を下総に下り、香取郡大須賀郷に配流の居を定めさせた(卿は五カ月後の十月二十九日病死。時に三二歳。明治十五年卿を祭ったのが小御門神社。)。九月には高時の命でまた上洛している。しかし、彼は官軍に属し、新田義貞の鎌倉攻めには奮戦して軍功は抽(ぬきん)でていた。貞胤は一足さきに下総に帰っていたのか、鎌倉攻めの道筋は下総から海岸沿いに進撃し、鶴見(横浜市)で金沢貞将を破り、更に六浦(むつうら)から鎌倉入りをしている。このことは、すでにだいたい述べた(前節第五項「千葉氏と北条氏」参照)。
 貞胤の叔父、宗胤は肥前国小城郡を支配し、晴気城に在って、千田太郎、大隅守と称していた。子息の胤貞もまた同じように千田太郎、大隅守を名乗っていた。九州千葉氏ではあるが、もちろん、宗族の千葉介には忠誠を尽している。
 元弘の変に際しては胤貞は高時の命で上洛しているが、『千葉大系図』によれば、特に肥前国において軍功があったという。
 建武新政のとき、不平の武士は諸国で叛乱を起した。後醍醐天皇はこの調伏祈願を紫宸殿で行う筈であった。武装の兵共が南庭の左右に居並んで剣を抜き、四方を鎮める儀式が始まろうとした時、左側に立つ予定の千葉介貞胤が、右側の相手三浦介高継を嫌い、高継もまた千葉介の下位に立つをいさぎよしとしなかった。そして、二人とも出仕をとりやめてしまったので、儀式は遂に流れてしまった。『太平記』では、東国武士の粗野な性格を示す物語であるとしている。
 たしかに粗野といえば粗野かもしれないが、頼朝時代の御家人には見られなかった態度である。混乱期で統制の中心がないこと、と同時にそれぞれ相伝の所領を基盤として、守護請や下地中分の制度なども徐々に発生してきている時代だけに、各武将とも領国制の大名に成長しようとする独立意識の強烈さをもっていたためであろう。『二条河原の落書』にいう「下克上(げこくじょう)する成出者」「自由狼藉世界也」の時代である。下総守護職としての貞胤の主張には粗野を超えた大名成長への時代精神が流れているといえるのではないか。
 少し時代がズレたが、ここで千田太郎に関連して元寇と千葉氏の関係を考察してみよう。
 平安末期から鎌倉時代においても、僧侶や商人の中国との往来は相互にかなり盛であった。三代将軍源実朝は日宋交通に熱心であり、失意の余り陳和卿を介して、入宋の計画も抱いていたが、遂に果たすことのないうちに非業の最期を遂げてしまった。
 鎌倉時代、中国に留学した名僧は総計約五十余名、なかでも重源、覚阿、栄西、道元らは特に有名である。また、来朝した宋僧も多い。蘭溪道隆(建長寺開山)、兀庵(ごったん)普寧、大休正念、子元祖元(円覚寺開山)らは、禅宗の興隆につくし、また、祖元のように北条時宗の帰依僧として、間接的に国難突破に貢献した禅師もあるのである。
 商人などは主として江南に渡航して自由貿易を営んでいた。親しい関係にあったので弘安の役の際にも死を免れた賊を追殺したが、新附人である江南人を斬ることはほとんどしなかったようである。
 これらの僧侶、商人の渡来する港は博多であり、太宰府で監督した。しかし、鎌倉幕府もまた鎮西奉行を置いて、管内の治安維持、御家人の統制、国防に関する事項をつかさどらせた。初代の鎮西奉行は天野遠景であり、次いで大友能直と太宰少弐武藤資頼の両人を任じている。
 さて一方、大陸においては、源義経の後身という俗説によって名高いテムジンが十三世紀の初め、蒙古諸部族を平定して内外モンゴリヤに勢力を確立し、汗位に推戴されてチンギス汗と称せられた。元の太祖である。彼とその子息らは華北、中央アジア、ヨーロッパまで遠征して、欧亜に跨る大国を樹立した。特に彼の孫、フビライ汗は北京を都として大都といい、一二七一年、国号を元と定めた。チンギス汗から五代目であり、元朝初代の世祖でもある。
 彼は高麗を属国とし、高麗に命じて日本招致の労をとらせた。元朝の使としては、赫徳(かくとく)・潘阜(はんぷ)・趙良弼(ちょうりょうひつ)らが有名である。『元史日本伝』によると、世祖の至元三年、日本の文永三年(一二六六)赫徳を国信使として、国書を持って日本に使いさせた。そして書に曰く。
 大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず。(中略)高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇(みつじ)し、開国以来、亦時に中国に通ぜり。朕が躬(み)に至りては、一乗の使の以って和好を通ずる無し。尚お恐る、王の国之を知ること未だ審かならざるを。故に特に使を遣わし、書を持して朕が志を布告せしむ。冀(ねがわ)くは自今以往、問を通じ好を結び、以って相親睦せんことを。且つ聖人は四海を以って家と為す。相通好せざるは、豈に一家の理ならんや。以って兵を用うるに至りては、夫れ孰(た)れか好む所ならん。王其れ之を図れと。
 この国書は表面は日本との国交の開始を要望しているが、その実は威力で従属させようという主旨である。
 (『五代帝王物語』には文永三年の元の牒使は趙良弼とあり『元史日本伝』と異る。『元史日本伝』では趙良弼が国信使に任命されはじめて来朝したのは文永八年(一二七一)である。(『関東評定衆伝』)彼は文永十年にも使者として来朝した。)
 幕府は鎮西奉行から報告をうけ、事の重大性にかんがみて朝廷に奏上するとともに、幕府も対策を練った。無礼な国書は武士の面目にかけても受諾できず、蒙古の要求を拒否した。蒙古の使は『元史日本伝』によれば、その後も六回来たが、幕府は拒否の方針を貫いた。
 幕府は文永五年二月、防備の準備令を下すとともに、朝廷の決意も促した。朝幕同一方針で対処するに決した。
 三月五日には、一八歳の時宗が執権に、六四歳の政村が連署となって時宗の援助に当たることになった(『関東評定衆伝』文永五年の条)。
 文永八年(一二七一)高麗から蒙古侵攻の警告の書面もあったので、幕府は九月、鎮西の守護地頭に令して国防に備えさせ、鎌倉在住の九州の家人を故国に帰し、更に四国、中国の家人にも順次西下して九州の防備に当たるよう訓令した。幕府の防禦方針の大綱は鎮西奉行の統率下にある九州の家人を主力として、専ら陸上の守備に任ずるにあった。
 さて、千葉介頼胤(胤貞の祖父)はこのときの幕命によって、肥前に所領をもつ家人でもあるので、千葉から九州に馳せ参じたのであろうか、おそらく、そうであろう。長男宗胤は当時八歳の幼少であったが、やはり父と同行して肥前国、晴気城に着いたのではないかと思う。次男胤宗は四歳であるから千葉城にとどまっていたと想像される(『関東評定衆伝』『北条九代記』には頼胤はじめ千葉氏関係の記事はない。)。
 遂に世祖フビライは至元十一年、(つまりわが文永十一年)三月、鳳州(今の陜西省)経略使(地方官)実都(日本では忻都)の高麗軍民総管洪察球爾に命じ、千料舟(二百人乗りの舟)・巴図爾軽疾舟(軽快で舟足の速い舟)・汲水小舟各々三百、計九百艘に士卒一万五千(『八幡愚童訓』には賊四百五十艘三万人とある。)を載せ、七月を期して日本を攻征させることにした(『元史日本伝』)。つまり文永の役である。
 文永十一年(一二七四)十月三日、高麗の合浦を出発し、五日対馬に着き守護代宗助国は防戦これ努めたが及ばず、一族一二名討死してしまった。次いで十四日壱岐を侵し、守護代平景隆は百余騎を率いて奮戦したが遂に敵せず討死してしまった。両島の島民は、男子はあるいは、殺し、あるいは虜にし、女は取集めて掌を貫いて縄を通して、船に結付けたというのは、このときのことである。
 遂に十九日筑前今津に至り、彼らは水陸並び進んで二十日には博多に迫った。わが軍はこれを迎え撃ち、大いに苦戦した。それというも、わが方の戦法は一騎討ちなのに彼の方は集団戦法、しかも火薬を使用して石などを飛ばす、いわゆる〝てっぽう〟の新武器を持っていたからである。その夜も暮れてわが軍は水城(みずき)まで退却し、彼らは船に帰った。ちょうどその夜玄海灘に台風荒れ狂って彼らの艦船は大方覆没してしまった。
 この合戦に千葉介頼胤は奮戦したが不幸にして傷をうけ、それが原因で遂に翌建治元年(一二七五)八月十六日逝去した。時に年三七歳。国難に当たって勇戦奮闘した千葉介の面目躍如たるものがある(『房総通史』『千葉県史明治編』)。ただ長男千田太郎宗胤は一〇歳であったが、果たして父とともに合戦したのか、どうか知ることができない。
 台風によって幸運にも国難を切り抜けることができたが、幕府は今後の襲来に備えて万全の策を講じた。
 北条時宗は文永の役の年は年齢二四歳、連署政村は文永十年に六九歳で他界した。時宗の苦衷察すべきである。
 彼は文永の役にかんがみ、積極的に外征する方策を立て、御家人らの参加も多かったが、遂に中止してしまった。
 北条実政を九州に派遣して総帥とし、また、宗頼を長門に特派し、時村を筑後守に任じた。更に、北条師時を長門守護に任命し、業時を播磨に派遣した。まさに北条氏一門をあげて国難突破の体制を備えた。
 文永の役の翌年、元の世祖は至元十二年(日本の建治元年(一二七五))二月、礼部侍郎杜世忠・兵部侍郎何文著・計議官蘇都爾丹を遣わして、国書を日本に持参させたが、何ら報告がなかった。『元史日本伝』の記事に相当するものとして、『関東評定衆伝』の建治元年の条に、元使の杜世忠ら五人を九月十日斬首したとある。更に『北条九代記』には、より具体的に斬首の状態を記している。それによると、建治元年、四月十五日、大元の使が長門国室津浦に着いた。八月その牒使五人を関東に召し下して、九月七日、龍口で首を刎(は)ねた。
 一、中須大夫礼部侍郎杜世忠年三十四大元人
 二、奉訓大夫兵部侍郎何文着年三十八唐人
 三、承仕郎回々都魯丁年三十二回々国人
 四、書状官薫畏国人杲(こう)年三十二
 五、高麗〓語郎将徐年三十三
 (都魯丁はアラビヤ人かペルシャ人。杲は薫畏国だからウイグル人であろう。)
 そして、斬首したのは元の日本攻略の野望を絶つためであったのである。
 それとともに防禦策を構じ、鎮西の守護には優れた人物を任じ、京都大番役をやめ、公事を減じ、倹約を行い、民庶を休養させて、元の襲来に備えさせた。
 この体制のもとに、沿岸防備を厳にし、筑前の海岸一帯に防禦の石塁を築き、鎮西の諸豪族に課してその任に当たらしめた。この土工については、鎮西の領主は皆領地の段別に応じて、これを分担したのであるが、出征の兵士だけは免除された。
 さて、このとき、千田太郎宗胤は一二歳である。想像するに、おそらく出征将士の中には加わっていないであろうから、肥前の所領の段別に応じて同族とともに、石塁構築を負担したのではないであろうか。もちろん、北条実政の輩下にあって、その指揮に従ったものであろう。
 元の世祖は至元十七年(一二八〇・わが弘安三年)南宋を滅ぼし、対日本関係の役所として、日本行省を設置して再征を計画した。そして翌十八年(わが弘安四年)正月、日本行省右丞相阿〓罕(あるかん)・右丞范文虎及び実都・洪茶球爾に命じて、一〇万人を率いて日本を征せしめた(『元史日本伝』)。
 つまり、弘安の役である。
 まず、二月、元の諸将は元主に拝辞し、五月三日、忻都(実都)・洪茶丘(洪茶時爾)は元軍・高麓軍合わせて各四万、戦艦九百艘を率いて合浦を発し、二十一日、高麗軍は壱岐を侵した。元軍は六月五日博多湾の志賀島・能古島に至り、高麗軍も来り会した。大矢野・河野両氏は敵艦を急襲し、大友・少弐・島津・秋月・菊池・竹崎らの諸将は海陸で勇戦した。
 范文虎の一軍である江南軍は船艦三千五百艘、兵十余万(江南のいわゆる新附人)はおくれてさきの東路軍に加わり、肥筑の海上舳艫相銜(ふく)むという有様(ありさま)であった。我軍防戦怠らず、敵軍もまた石塁に阻まれて上陸できず、移って鷹島を根拠地とした。閏七月一日夜またもや台風大いに起こり、賊船覆没破壊し、溺死する者多数、忻都・洪茶丘・范文虎らは命からがら逃げ去った。
 さて、この弘安四年、宗胤は一七歳である。鎮西の武将として合戦に活躍したのではないだろうか。だから、その後において九州千葉氏は肥前に勢力を振うことができたのではないかと思う。もちろん房総の千葉介が宗家であり、千田庄も領有しているので、肥前晴気城を、居館として、勇戦しても、九州の土豪的武将に比較すれば、やはり影薄き存在として遇されたかと推察される。
 『千葉大系図』によれば、弘安十年、肥前国小城郡に三間山円通禅寺を建立して、文永の役で戦死した父頼胤と部下の霊を供養したという。まことに孝心と博愛に満ちた武将である。永仁二年(一二九四)正月十六日卒し、年三〇という。
 弟胤宗は猪鼻城にあり、時に鎌倉の館に在って幕府の警固に任じていたと思われる。このことは先述したが、弘安の役に彼は一四歳であったので無理もないことである。もちろん同族協力して援助に当たったことであろう。
 この両役の国難を克服することができたことについて、『八幡愚童訓』には、
 文永ニハ猛火ヲ出。弘安ニハ以大風異賊御坐。水火風三災却末ナラネト出来神慮任テ自在也(中略)八幡大菩薩霊威也。
と、つまり敵国降伏を祈願した神々、特に八幡大菩薩出て戦い、それが大風となって敵を覆滅したというのである。いわゆる神風である。
 神風もさることながら、朝幕一致の方針、時宗の胆力、武士をはじめ国民の敵慨心の齎(たまもの)と顧みて感謝すべきである。
 それにしても、元寇と千葉氏の関係については、『房総通史』、『千葉県史』に頼胤の奮戦を述べてあるが、それは如何なる史料にもとづくのか、肥前国に所領があったという理由からの類推ではないだろうか。筆者もそれを踏襲したが、詳細は不明の域を出ない。