天皇は
古の興廃を改て、今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべしとて新なる勅裁漸くきこえけり。
(『梅松論』上)
という理想で新体制の政治に取組んだ。しかし、新なる勅裁も
「綸言(りんげん)朝に変じ暮に改りしほどに諸人の浮沈掌を返すが如し。」
(前同書)
で、一貫性のない朝令暮改の政治であった。武士の不平はつのった。その原因は政治のまずさだけではない。社会構造の基盤である武士の荘園制度は何ら変革されていないことに根本原因がある。したがって、武家政治の再現は必至である。これを洞察したのが後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府の討滅に功績のあった足利尊氏である。彼は平氏である北条氏を打倒して源氏再興の野望をもともと抱いての行動であったかも知れないが、機をみるに敏なる政治家であった。
彼は武家政治再興の妨害になるとみて、護良(もりなが)親王を建武元年(一三三四)鎌倉に流し、弟の直義に監視させながら東方の固めをさせた。翌二年、北条時行が幕府再興をめざして鎌倉に侵入したので、直義は親王を弑し奉った。尊氏は征夷大将軍に任命されて、時行を鎌倉に誅伐した。
同じ源氏でありながら、上野の新田義貞と下野の足利尊氏は、新政開始の早々から確執して対立抗争する仲となった。直義は新田義貞を討つ名目のもとに諸国に兵を催した。ここにおいて尊氏、直義の兄弟と尊良(たかなが)親王を奉じた新田義貞との間に合戦がはじまり、それは自然に全国に波及していった。
北条時行の乱、鎌倉の足利氏と下総の守護である千葉氏との関係はどうであったのか、ほとんど知ることができない。おそらく、下総国内においても一族間に反目などもあって、そう簡単には兵を動かすことができず、近国であるだけにその余波を警戒して、国内の支配統制を強固にすることに専念していたとも推測できる。
尊氏は建武三年(一三三六)一月京都に帰参したが、二月には楠木正成、新田義貞の軍と摂津で戦って破れ、鎮西に逃走した。しかし、三月筑前多々良浜で菊池武敏の軍を破って態勢を立て直し大挙東上した。五月には兵庫湊川で防戦した正成を討死させ、義貞を東に敗走させた。義貞は皇太子を奉じて越前に赴いた。尊氏は十一月には光明天皇を立て、京都に幕府を開き、建武式目を定めて政治方針を示し、人心の安定と社会秩序の恢復を図った。
こうして建武の新政は破れ、後醍醐天皇は十二月の末っ方、神器を奉じて吉野に潜幸された。吉野と京都の対立抗争は日に激しく、年とともに拡まり、いわゆる南北朝時代となった。そして、全国の武士は何らかの形で直接、間接に、この戦乱に巻き込れていった。足利義満の明徳三年(一三九二)南北合一まで約六〇年間の長期である。戦乱と破壊のうちにも幕府政治は定着し、義満に至って全盛を極めたが、しかし、経済や社会は基本的に変革されるようになった。
さて、この間、安房、ことに上総においては守護の交代は各氏入り乱れた。すなわち、安房では斯波、結城の両氏、上総では佐々木、千葉、今川、上杉の諸氏である。しかし、下総では千葉氏だけが守護職を堅持している。こういうことは珍らしいことであるが、長年蓄積された千葉氏の勢力は強く、実績も高かったからであろう。それだけに下総は安定し、城下千葉も繁栄し、民衆の生活もまた、ある程度豊かに落着いた日々を送れたことであろう。
しかし、千葉氏は下総一国の守護であり、今までのいきさつもあって南北朝時代、ただ千葉城にあって拱手傍観する態度は許されなかった。
建武三年、新田義貞が越前に敗走したとき、千葉介貞胤(時に四六歳)も千田太郎胤貞も義貞勢に加わって苦戦している(しかし『梅松論』によれば、胤貞は尊氏と菊池武敏との多々良浜の合戦では、尊氏方として勇戦している。『千葉大系図』では、貞胤とともに新田勢となっている。その間の事情は明らかでない。)。
さて、義貞は越前木目(きのめ)峠の戦で、越前の守護尾張守高経に行手を阻(はば)まれてしまった。このとき、義貞の配下にあった千葉介貞胤について、『太平記』は次のように記している。
千葉介貞胤ハ、五百余騎ニテ打チケルガ、東西クレテ降ル雪ニ、道ヲ踏(ふ)ミ迷ヒテ、敵ノ陣ヘゾ迷ヒ出デタリケル。進退歩ヲ失ヒ、前後ノ御方ニ離レケレバ、一所ニ集リテ自害ヲセントシケルヲ、尾張守高経ノ許ヨリ使ヲ立テ、弓矢ノ道、今ハ是迄ニテコソ候ヘ、枉(ま)ゲテ御方ヘ出デラレ候ヘ、此ノ間ノ儀ヲバ身ニ替ヘテモ申シ宥(ゆる)ムベシト、慇懃(いんぎん)ニ宣ヒ遣サレケレバ、貞胤、心ナラズ降参シテ、高経ノ手ニゾ属シケル……。
右のような事情で、千葉介貞胤はこの時から足利尊氏の部下になる。そして、軍陣に励み武功を賞せられた。貞胤は元弘の変では北条高時に、転じて新田義貞に、そして更に足利尊氏にと加勢して、ほとんど生涯を合戦に過している。『千葉大系図』によれば、従四位下に叙せられ、観応二年(一三五一)元旦、京都で死去したという。時に歳六一。
千田太郎胤貞も貞胤と同じように木目峠でともに自刄しようとしたが、斯波高経の温情によって尊氏の麾下となった。後に関東に下向したが途中参河で病死した。四九歳であった。その後、胤貞の子息らは九州千葉氏として屡々出陣しているが、それは下総の守護千葉介の命によるものであると、『千葉大系図』は誌している。
いずれにしても、貞胤の晩年から子孫は足利将軍に味方しているので、下総は大局的には足利氏の勢力下に入ったと察せられる。
貞胤の子氏胤は京都で誕生し、康永四年(一三四五)八月の天竜寺供養には六歳で、後陣の随兵として参加している(『園太暦』康永四年八月廿九日の条)。なお、このときの供奉には粟飯原下総守清胤も同道している。
氏胤は四条畷合戦には高師直の部下として奮戦したが、郎従を多く失っている。観応二年(一三五一)十一月四日、尊氏が鎌倉の直義を討伐するため京都を出発したとき、千葉新介は一五歳で後陣をつとめた。そして直義を攻誅したが配下の上杉氏、長尾氏が信濃を指して敗走するのを追撃した。しかし、早河尻で包囲されて、氏胤は約五百騎の郎従を討死させてしまった(『園太暦』観応二年十一月四日の条)。
なおこの年の正月、義詮が京都を逃げ出し、代わって桃井直常が入京した。そこで、尊氏は義詮を伴って在京中の直常と四条河原で戦った。この間に千葉氏胤は近江の八幡へ走った。正月十七日、直義は京都の警衛を斯波高経に命じたが、そのとき千葉氏胤も入京した。しかし二年前に直義と高師直が対立したとき、氏胤の父貞胤は師直方に参集している。
このように千葉氏は足利方とはいえ、諸将の対立ごとに、去就は情勢に応じて変転したが、尊氏の麾下として奉公を励むことは大体一貫している。たとえば、文和元年(一三五二)尊氏が直義を鎌倉で殺害した後、新田義宗、義興、脇屋義治らが宗良親王を奉じて上野で兵を挙げて鎌倉攻めをしたとき、千葉介は尊氏の下で勇戦している。『千葉大系図』でいうように、戦功は諸将に勝っていた。尊氏に忠誠を尽くしたからこそ、下総国の守護も守りとおせたのであろう。
去就常なきは千葉介だけではなく、そこに政治の困難性が芽生えている。