第三項 千葉氏の動向

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 すでに述べたように、千葉介は貞胤以来、尊氏の有力な配下として勇戦しているが、本拠である下総においては、宗族として相伝の所領を堅持しながら、しかも一族をがっちり統制することはなかなか困難であったようである。原因は複雑である。一つには、貞胤にしろ氏胤にしろほとんど合戦に日を暮らし、在京して本国を留守にしていること、二つにはそれだけに、鎌倉時代には一族の中に埋没していた庄郷の武将が各自独立意識を強めてきたこと、三つには混乱時代で下剋上の思想が萠芽して実力主義の時代に転換しつつあること、など時代全般の転換の気運が高まってきたことであろう。
 具体的には地方の小領主の間に、所領の所有権をめぐって抗争が相つぐことである。たとえば千田庄の争いである。千田庄は由来も古いが、常胤のとき、平親政をいけどりにしてから千葉氏の有力な荘園となった。千葉介貞胤も千田太郎胤貞もともに常胤の次男師常の子孫である。胤貞は肥前国小城郡を領有しているが、本拠は千田庄である。この貞胤と胤貞との間に、千田庄の領有権をめぐって不和がつづいた。
 遂に建武二年(一三三五)千葉氏の一族相馬親胤が胤貞と連合して猪鼻山の千葉城を攻めているのも、さきの千田庄の所有権争奪が関係しているらしい。『千葉大系図』では貞胤も胤貞も木目峠の苦戦から救われて、ともに足利尊氏の家人になっている。そして、両人が中央政界の渦中にある間、在国の武士はそれぞれの庄郷、特に千葉庄か千田庄かを拠点とする二派に分れて交戦したのではないだろうか。康正元年(一四五五)千葉介胤直が一族の馬加康胤に攻められて八月十二日に自殺した(『鎌倉大草紙』)。その後、胤直の一族が逃亡して本拠とした所は千田庄(現在多古町)内の栗山川右岸の志摩城といわれている。千田庄の領有権をめぐっての一族間の争いは長い間糸をひいていたように思われる。
 さて、千葉氏胤であるが、その活動ぶりは前項で『園太暦』の記事で述べたとおりである。しかし『千葉大系図』では更に註記して、若年で家督を相続したが一族の円城寺貞政がよく補佐し、尊氏、義詮は称讃したといい、また父の遺命で千葉山海隣寺を経営したともいっている。千葉山は常胤を葬った所であろうか。また、歌道に優れ、その歌は「新千載集」にも撰入され、まさに文武両道の士であったが、貞治四年(一三六五)、京都で病にかかり、帰国の途次、美濃の領所(蜂屋庄か)で二九歳で卒去したという。
 そして、このとき家臣には円城寺、木内、鏑木、中村、内山、深志、多田、山河、内記、河戸らの諸氏があったという。さきにも述べたように常胤時代には庄郷の諸将は千葉一族の中に包含されていて、家臣はほとんど表に出ていない。しかし、十四紀の後半には家臣の名が多く記されている。千田庄の領有権だけでなく、乱世下、国内の庄郷の小領主はこぞって独立し領地の拡大につとめて豪雄になろうと独立意識を強めてきているのである。幕府の内訌、下剋上の発生、中央の貨幣経済、農産物の商品化に伴う郷村制の成立、荘園制から領国制への動向など、社会、経済の機構は大きな変化の傾向をみせて、危機意識とともに新時代の到来を告げている。この全国的な新機運に乗じて下総国内の小領主の分立抗争は一段と激化していく。歴史の必然的な流れともいえよう。
 この流れにともなって、城下町千葉も次第に騒然たる慌(あわただ)しさを加えていくのではないだろうか。