第一項 関東の守護と鎌倉幕府

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 足利尊氏は、北朝の光明天皇より、暦応元年(一三三八)征夷大将軍の宣下を得て京都の二条高倉において鎌倉幕府にかわって武家政治を再興したが、南朝側との抗争を収拾することができず、二代将軍義詮を経て足利三代将軍義満の時代にようやく無力化した南朝側と和平交渉をすすめ、明徳三年(一三九二)南北朝の合一をはかることに成功し、半世紀余に及ぶ動乱に終止符をうつことができた。この時点をとらえて、以降を、室町時代と称することは、多くの人の知るところである。
 このころの関東は、鎌倉に拠点をもつ関東管領の治めるところとなっていた。その起こりは、田中義成博士の名著『南北朝時代』によると、建武三年(一三三六)十一月、尊氏が弟の直義をして関東十カ国を管領せしめたことをもってその起源とされた。直義が京に上るに及んで尊氏は長男の義詮を任じ、高師冬、上杉憲顕、細川利氏、斯波家長らを輔任させ、貞和五年(一三四九)十月、幕府の執事高師直が直義と衝突し、直義が政務からはなれると、義詮を京に呼びよせ、かわりに弟の基氏を鎌倉に派して高師冬、上杉憲顕、畠山国清らを執事に任じて、これをたすけさせた。爾来、基氏の子孫相ついで関東管領として東国を治めること九〇年に及んだ。
 その政庁を鎌倉府とよび、鎌倉府の主帥を関東管領と称し、更に管領の補佐役を執事と呼称したが、のち(満兼時代)には、管領を公方または御所、執事を管領とよぶようになった。
 鎌倉府の職制は、室町幕府に準じて評定衆・引付衆・侍所・政所・問注所などからなり小幕府の形態をとっていた。その治定範囲は、はじめ関八州と甲斐・伊豆の十カ国であったが、明徳二年(一三九一)には奥州探題の管した奥羽二カ国が加えられ十二カ国を管轄した。
 特に、千葉氏は侍所に出仕し、鎌倉府の要職についていたことが知られている。因みに侍所とは、幕府の所職と同じく市街を巡羅し刑の執行を掌るところで、『鎌倉大草紙』によると、応永のころには千葉介兼胤が、享徳・明応のころには千葉介入道常瑞、舎弟中務大輔入道了心がその職にあったことが記載されている。
 南北朝の動乱期から室町時代にかけ、最も成長したものは守護である。守護の存在はあくまでも幕府権力を背景に、その地位に任ぜられることによってのみ、勢力の拡大をはかることが可能であり、この点は、後述の戦国大名と異なり一定の限界をもっていた。
 従来、守護の権限は、領内の軍事・警察権の行使に限られていたが、内乱期に入ると、この権限のほかに「苅田狼藉」と「使節遵行」などの民事紛争の処分権を付与された。「苅田狼藉」とは、領地の境界や相続争いのとき、判決をまたずに所有権を主張して実力でとり入れをすますことを意味する行為で、守護はこれの検挙と財産を没収することのできる権限を委ねられ、「使節遵行」とは、裁判ののち勝訴者に没収した土地をひきわたす権限である。
 また、国衙の権能を掌握して国衙領を合わせ、年貢の半分を兵粮料として武家方に納めさせる半済を適用してそれらを近臣、被官に与え、抵抗の弱い領地は実力で守護領に加え、逆に抵抗の強い寺社本所一円領等には、守護請を成立させて、契約年貢の納入を怠りながら荘園を蚕食していった。
 しかしながら、守護が一円化をすすめようとするとき、独立化をねらう国人(在地領主層)勢力と衝突し、守護の力が強大であれば、その被官となるも、弱体化すると離反独立化をはかろうとする動きが著しく、したがって守護の地位は極めて不安定なものであったことが知られる。
 室町時代の下総の守護に任ぜられたのは、名門千葉氏であった。
 佐藤進一の『室町幕府守護制度の研究』によると、南北朝時代、千葉貞胤が任ぜられ、国司を兼ねていたことが指摘されている。貞胤は、観応二年正月一日病歿して嫡子氏胤が家督を相続した。