第二項 千葉氏胤の時代

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 下総国の守護となった千葉氏胤は、『千葉大系図』によると、建武四年(一三三七)五月に京都で生まれ、貞和元年(一三四五)八月に行われた天竜寺落慶供養のとき、九歳(『園太暦』には六歳とある)で供奉をし、その立派さは多くの人の耳目を驚かしたといわれる。観応二年一五歳で家督を継いだ。このころ、足利直義対尊氏、師直が争っており、氏胤は、はじめ直義方に加わり、北国に走ろうとする高師直の軍を斯波高経と近江の坂本に遮断し、丹波へ追いやっている。夢窓疎石の仲裁で尊氏と直義は和睦したが、その後再び衝突し、氏胤は直義方に従わず、京都に留ったらしく、観応二年(一三五一)十一月尊氏方に属し鎌倉に下っている。このとき、氏胤は、生まれてはじめて郷国下総に帰ったのであろうといわれている。
 文和元年(一三五二)閏二月、新田義貞の子義興は、弟義宗、従弟義治らとともに上野に挙兵し武蔵国に攻め入り、義興の軍のみ鎌倉へ入った。このとき、千葉氏胤は、粟飯原彦五郎基胤らとともに尊氏軍に加わり、大いに活躍した。いつ上京したか明らかでないが、貞治四年(一三六五)九月十三日に京都から帰途美濃国において歿している。
 氏胤は、歌道にすぐれ、その歌が藤原為定の撰する『新千載集』に採り上げられた程であり、文武両道に秀いでていたことが知られている。