第三項 千葉満胤の時代

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 氏胤の歿後、千葉宗家を継いだのは、千葉満胤である。満胤は、延文五年(一三六〇)十一月三日、氏胤の長子として生まれた。氏胤の歿した貞治四年(一三六五)六歳で家督を相続したので、将軍足利義詮は、御教書を下して一族家人らをして補佐せしめた。その一族には、粟飯原弾正左衛門、大庭次郎、相馬上野二郎、大須賀左馬助、国分三河入道、東二郎左衛門入道、木内七郎兵衛入道、国分六郎兵衛入道、同余一、国分越前五郎、神崎左衛門五郎、那知左近蔵人入道の名があげられ、家人の主なものは、円城寺式部丞政氏、同駿河守、鏑木十郎、中村式部丞、深志中務丞、高城越前守らであった。
 康暦二年(一三八〇)五月、下野の小山義政は領土を接する宇都宮基綱と争いを引き起した。関東管領足利氏満は制止したが、義政はその命に従わず、かえって宇都宮の所領に押しよせ戦いを挑発したので、氏満は、関東八カ国の兵を集め、山内の上杉憲方、犬懸の上杉朝宗及び木戸法季らをしてこれをうたしめた。自らは武蔵府中の高安寺に陣し、ついで大里郡村岡に著陣し指揮をとる。『千葉伝考記』によれば、千葉満胤も鎌倉府の催促に応じ、従軍したことがしるされている。八月二十九日、鎌倉方の諸軍は進んで小山の祇園城に迫り、西木戸口から攻撃を加えた。九月十九日にいたり義政は、使者を村岡陣におくり降伏した。氏満は、これを許したが、義政は、氏満の陣営まで来ずして再び叛いたので、翌弘和元年(一三八一)二月、上杉朝宗、木戸法季らをして祇園城に小山義政をうたしめた。満胤は再び兵を率いてこれに従う。義政は、禅僧を使者にたて、上杉朝宗らに降を請い、許されれば自らは僧となり、子の若犬丸に家を継がすことを願った。氏満はこれを許したので、義政は、剃髪して法衣を著し永賢と号した。

三―一四図 上杉氏系図(『千葉県史 明治編』)

 ところが、永賢は若犬丸とともに祇園城を焼き、糟尾の山中にのがれ再挙をはかった。この再挙をはかった原因としては、所領の処分が厳し過ぎたためではないかとみられている。弘和二年(一三八二)三月二十九日、氏満は、朝宗、法季らに命じ糟尾の長野城などを攻撃させた。永賢父子は城を支えることができず、山中にのがれ、永賢は自殺し、若犬丸は奥州に下ったといわれている。千葉満胤について、『千葉伝考記』は、「此の役、満胤去年以来陣営に在りて、戦功ありき」と記載している。
 このころから、鎌倉府は何事も京都にならい、主帥を公方といい、執事を管領と称するようになったことが指摘されている。その出典を求めてみると、公方については、『鶴岡事書案』永徳二年(一三八二)三月の条に「若し当別当同心無くば、公方へこれを申すべし」とあり、これをもって氏満を公方と呼んでいたことがわかり、管領については、『日工集』応永二年(一三九五)二月十七日の条に「府君は、管領上杉兵郎並上杉中書を差し」とあるのを初見とし、氏満時代から公方、管領の呼称のあったことを知ることができる。また、応永五年(一三九八)、千葉、小山、長沼、結城、佐竹、小田、那須、宇都宮の諸将を関東の八家と称し、室町幕府の国持衆に擬したことが、氏満の晩年に行われている。
 足利氏満は、応永五年十一月四日享年四〇歳で病歿した。長子満兼が相続し、三代目の公方となった。満兼二一歳、先例により京都より従五位下左馬頭に任ぜられる。管領は犬懸家の上杉朝宗がこれを補佐した。
 満兼は、父氏満以上に室町将軍に対する反抗意識をもやし、折あらば、将軍を倒してこれにかわろうとした。応永の乱の主謀者大内義弘の呼びかけに応じて挙兵をすすめたのはその現れである。上杉憲定は、これを諫め大いに心をくだいので、満兼も反抗をあきらめたが、幕府と鎌倉府の緊張を充分に解くには至らなかった。
 応永十六年(一四〇九)七月満兼は卒去した。ことに、満兼を幼児より守り育てた上杉朝宗は、追慕のあまり、葬場から帰宅せず、僧衣を着した上、千葉秀胤の建立した上総国長柄山胎蔵寺に入り、境内に庵(大雲庵蒼竜軒と号す)を結び満兼の菩提を弔った。

3―15図 胎蔵寺の梵鐘

 満兼歿後、その子の幸王丸が一二歳で相続する。十二月鎌倉において元服し、義持の偏名をつけて持氏と名のり、左馬頭となる。上杉安房守憲定が引続き管領としてこれをたすけたが、憲定は、応永十八年(一四一一)正月、管領を辞したので、朝宗入道禅助の子氏憲入道禅秀が代わって管領となった。
 応永二十二年(一四一五)四月、持氏は、犬懸上杉の家人で常陸小田氏の一族といわれる越幡六郎の出仕をとどめ、その所領を没収した。禅秀(氏憲)は、殿中評定の席において持氏を諫めたが、聞き入れられず、大いに憤慨する。禅秀は、しばらく病気と称して出仕せず、五月二日に辞職した。持氏はもとより禅秀に好感をもっていなかったので、これを許し、禅秀と反目の立場にあった山内上杉憲定の子憲基を管領にした。
 一方、京都では、兄義持に代わって将軍になろうとしていた義嗣が、関東のこのような形勢に着目し、密かに使者をおくって、持氏に対して不満をもつ叔父満隆と禅秀に反乱を誘いかけ、東西に事を起そうと計画をすすめていた。禅秀はこれを入れ、満隆にすすめて挙兵した。このとき、禅秀の姻戚である千葉満胤とその子兼胤をはじめ、関東の豪族、国人が参加し(上総国は、犬懸上杉すなわち禅秀の領国ゆえに国内の豪族は禅秀側に味方した)、関東は一時混乱状態となった。
 禅秀らは、公方の居館を襲撃したので、持氏は、佐介ケ谷の憲基のもとにのがれた。更に憲基邸も攻撃されたので持氏、憲基は、極楽寺にのがれ、のち、持氏は駿河に、憲基は越後に走った。勝利を得た禅秀は、満隆の養子持仲を公方とし、自らは管領となった。これを聞いた将軍義持は、東国、北国に対して出動を命じ、山名時〓、今川範政は持氏を援けて鎌倉に攻め入った。禅秀方の士気はくずれ、持氏に走る諸将も多く、応永二十四年(一四一七)正月、禅秀らは鶴岡八幡宮の別当坊で自殺した。
 千葉氏は、持氏に降って所領を安堵されたが、上総は元来、犬懸上杉氏の領国であったことからその後も叛乱が続いた。応永二十五年(一四一八)禅秀の執事榛谷重氏が上総の平三城に挙兵、いったん敗北したが執拗に抵抗し、上総坂本城(長南町か)に蜂起したが、平定され、重氏は鎌倉の由比ケ浜で斬られた。

3―16図 平三城址(市原市平蔵)

 このころは、満胤の嫡子兼胤が立派に成人して活躍している時代でもあった。兼胤は、一七、八歳ころから鎌倉府の侍所に出仕していた人物である。応永十六年(一四〇九)満兼が死歿したとき、新田義貞の嫡孫が、この隙に乗じて廻文を諸方に廻し鎌倉を討とうとしたが、兼胤はこれを発見し、新田某を捕えて七里ケ浜でこれを誅した。禅秀の乱の折には、千葉大介を名乗る父満胤とともに、千葉新介を名乗って従軍していることは先にふれたところである。
 その後、応永三十三年に父満胤と死別する。兼胤は、三四歳の働き盛りになっており、相続後、応永三十五年五月、持氏の常陸の小栗満重攻めに従軍し、戦功をたてる。永享二年(一四三〇)六月十七日三九歳で卒し、嫡子胤直が一二歳で家を継いだ。