この時期の歴史は、先進地帯においては、南北朝内乱に続いて荘園制の打倒を目ざし、武士階級はいうまでもなく、農民も土一揆等によって華々しい展開をみせている。これに対して、東国特に関東における動きは、著しく停滞的であり、後進的であったことが指摘されている。しかしながら、このような関東においてもその動きは緩慢ながら認められ、変革を余儀なくされていくことは歴史の必然として当然のことのように考えられる。
また、旧来の豪族は、惣領制にもとづく割拠体制を形成し、同族的結合の範囲は拡大されたが、基本的には惣領制が基礎になっており、この体制を克服できないところに没落の命運をたどるようである。やがて、この惣領制に対する矛盾と打倒への動きも皆無ではなくなってくる。特に、旧地頭級であった在地領主層は、守護の被官となることなく国人として地域的に結集し、一揆を形成していく。そして豪族の羈絆を脱して行動し、伝統的豪族は、この国人層を把握することが急務とされるようになってくる。
応安五年(一三七二)ごろになると、千葉満胤が幼少であったため千葉一族の実権を握っていた千葉長胤と譜代の家臣円城寺式部丞氏政らの対立が激化してくる。
香取神宮にあてた平長胤寄進状によれば貞治五年ごろ円城寺図書允以下の輩が、社領を押領したり、香取大禰宜家の重要な財源の一つである下総、常陸の海夫までも押領したことが記るされている。また、社殿造営の年期を無視し供料の貢進を停止する等、狼藉をきわめたことが知られる。
千葉氏の家人であり、香取神宮の一部を含む郷村地頭の中村入道生阿らの神領の押領も見逃せない。この場合は、香取神宮大禰宜長房が、この事情を千葉氏に訴え安堵を求めている。これに対し、千葉長胤は、所領の安堵と地頭中村氏の乱暴の代償として下総国千田荘から田地一町を神宮に寄進している。その後中村氏と神宮の所領争いは更に続き、中村式部丞胤幹は田畠数十町を押領し、香取の社人実持、実秋とともに神宮に乱入し、放火、神輿に乱暴を加え、社人を殺害するなど狼藉の限りをつくしている。千葉長胤は、押領神地の返還をせまったが、中村は円城寺と連繋してこれを聞き入れなかったので、出兵が計画された程である。一方、社人は神輿を鎌倉に動座させることによって早期解決をはかろうとしたので、鎌倉府もこのままに捨ておけず、応安七年(一三七四)四月、中村が非法との判決をくだし、押領地の返付を命令した。しかしながら、中村は承服しなかったので、鎌倉府は山名智兼、安富道轍の二人を派遣してまで中村を鎌倉に召喚し、問題の解決をはかろうとした。五月、鎌倉府の遵行使である先の二名が下総にくると、円城寺、深志らは路をふさいで通行を阻止し、山内はおおぜいを率いて使者を討ち取ろうとしたので、山名と安富は空しく引上げざるを得なかった。六月、再び両人が出張したが、円城寺、山内らの妨害にあい、目的を達せず帰府した。のち、八月に至り鎌倉府は、命令貫徹のため千葉一族に対して御教書を下して遵行使に協力せしめ、ここに両者の妥協が行われたらしく、事件は落着した。
この事件に際し、千葉満胤は地頭中村胤幹を鎌倉府へ出頭させることを拒否しており、そのほかのことに関しても鎌倉府の命令を拒んでいることに注目する必要がある。非血縁の家臣の台頭という新しい動きに対し、これら家臣を掌握しなければ自己の権力を維持することがかなり難しい段階にきていることを暗示させるものがある。円城寺、深志、山内らが中村のバックアップに当たった動きにも驚異の目を見はったことであろう。また神宮そのものも、武士階級に神領の押領を余儀なくされ、更に農民層の成長がこれに拍車をかけ神領保持に腐心しなければならなかった。
前記の貞治、応安事件と同じようなケースは、上総国湯井郷においても起こっている。
上総国北山辺郡内湯井郷は、観応三年(一三五二)十月十五日足利尊氏から鎌倉の扇ケ谷にある浄光明寺に寄進された。ところが、貞治三年(一三六四)千葉氏胤の家人が、湯井郷内の田地を押領したので訴えられ、足利基氏は、今川貞世をして抑留することをやめさせ、下地を浄光明寺雑掌賢秀に返すことを命じている。また、翌貞治四年には、兵部房道精による湯井郷内滝若一王子領田畠屋敷の押領がみられ、上総国守護上杉朝房は、石河勘解由左衛門尉をして、これを停止させ下地を浄光明寺雑掌賢秀に沙汰させている。
以上によって、南北朝動乱期における寺社領の侵害が在地領主層などによってすすめられていたことを知ることができる。
神領等の押領についてかなりの紙面を費したが、農村についても目を転じてみよう。
応永二年(一三九五)、上総国佐坪郷の百姓らの反領主的な動きが注目される。佐坪郷は、一宮川の上流、庁南城から大多喜城に通ずる山間の農村に当たり、鶴岡八幡宮を領主とする。『鶴岡事書日記』によると、彼ら百姓は、鶴岡八幡宮に対して、領主側が正規の年貢以外に恣意的に課する「浮役」に反対し、年貢以外は納めないと主張している。次に、夏が納期である夏麦年貢の納入に対し、その納入期日を秋まで延期することを要求している。佃は百姓のものとし、検見制度を廃止し、定免制度を採用して反当たり三斗の年貢を請負い、自然災害による損亡したときは、その収穫に応じ滅免を求めている。この要求貫徹にあたっては、年貢の対捍(たいかん)(貢納の命を拒むこと)、強訴を企て、上使が下向すれば逃亡し、あるいは付近の悪党を引き入れてたたかうなど多様な戦術を試みている。これに対して領主側は、強訴の張本百姓を逮捕して年貢が皆済されるまで社家に幽閉するか、あるいは郷外に追放処分にするかし、また上使を下して夫役の徴発・年貢の収納にあたらせるなど、対策に追われねばならなかった。農民が近郷の悪党を引き入れたと同じように、領主側も、周辺の豪族東条・茗荷瑞・小蓋の三氏の援助を求め、鎮圧にあたったが、次第に社領は侵略され、鎌倉府より安堵の御教書が下されても、容易に遵行されなかった。
ちょうど同じ年に、下総国神崎庄宮和田郷内神崎神社領においても地頭の違乱が著しく、千葉胤高は、宮和田郷の地頭に違乱を停止せしめている。
翌年の応永三年(一三九六)八月の金沢称名寺雑掌光信の言上状によれば、関中務丞なる者が、大勢を率いて赤岩郷に押寄せ、放火したり、百姓をしぼりあげたり、寺領の法師を傷つけたり、思わぬ災難にあったことを訴えている。関中務丞なる者については「実名を知らず」とあるので、恐らく「悪党」の類であろうといわれている。そのほか、北総における称名寺領は、在地の武士によって押領が続けられ、幕府、守護等による停止処分も効果をあらわさずますます侵害は表面化するばかりであった。