第五項 永享の乱と結城合戦

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 五代将軍義量は、一九歳の若さで応永三十二年(一四二五)に死亡した。後継者がなく、父の義持が代わって政務をとっていたが、三年たった正長元年(一四二八)正月十八日四三歳の働き盛りで義持も死亡した。死の床における次期将軍の決定は、義持の兄弟四人のうちからくじ引きによって決定され、天台座主の青蓮院義円が就任することとなった。義円は、義持の弟で還俗して義教と名乗り六代将軍となった。この動きに対して不平不満にたえられなかったのが、鎌倉府の持氏である。持氏は、義持の死後将軍の地位を求めたが、候補にものぼらず、目的が遂げられなかったので幕府に対して敵対行動をとった。祝賀の使者を出さず、幕府が正長二年に永享と改元したのにも係らず旧年号をそのまま用いるなど反幕的であった。
 永享六年(一四三四)、持氏は鶴岡八幡宮に血書の願文を捧げている。これは等身の大勝金剛の仏像をつくり、寄附したとき納めたものである。自らの血でしたためた願文には鬼気の迫るものがあり、武運長久と呪咀の怨敵を除くことにあった。義教以下を敵としてのろい、平定することであったと思われる。穏健派の管領上杉憲実はつねに、持氏を諫めていたが、かえって疑いをかけられ、両者の間はますます険悪となった。そこで、憲実の家宰長尾入道芳伝、、扇ケ谷上杉持朝、千葉胤直らは、調停をはかったが持氏の聞き入れるところとならず、持氏は逆に憲実を討とうとした。身の危険を感じた憲実は、上野の白井に引きあげ、持氏と対立するようになった。ここにおいて、持氏は、一色直兼らを遣して憲実の討伐を命じ、自らも武蔵府中の高安寺に陣をしいて指揮をとった。義教は天皇に持氏追討の綸旨を求め、禅秀の子上杉中務少輔持房を将として二万五千の兵を東下せしめ、更に駿河の今川、甲斐の武田らにも動員令を下した。
 征東軍は東海道を進み、三島から二手に分かれ、一軍は三島から水呑関を通って箱根に進み、別軍は佐野から足柄に進軍した。持氏は、上杉憲直をして二階堂、宍戸、海老名の党及び安房の兵を率いて箱根に向わせたが、今川範忠の軍と風祭、早川尻に戦って敗れ、憲直は捕虜になった。征東軍は相模に入り、更に持房は淘綾郡高麗寺山に進み布陣した。一方、持氏は高安寺から相模高座郡海老名に陣を移し、征東軍の防禦にあたった。
 持氏に従っていた千葉胤直は、公方に献策して和議を修めることをすすめている。すなわち「憲実はもと叛心のあるものではないから宜しく和議を講じたまふべし。但し之を召すとも左右の讒言を懼れてくることはなかろうから愚臣が御公子(義久)を奉じて彼を迎え参りませう」と説得につとめた。持氏はこれを入れたが、鶴岡別当尊仲は簗田満助に之を抑止させたので成功するに至らず、胤直は大いに憤慨し、下総市河に引きあげ、のち上杉側に投じた。ついで、鎌倉で留守をつとめていた三浦時高が反旗をひるがえして憲実方にたち、鎌倉を攻撃した。一方、白井にあって関東の形勢をうかがっていた上杉憲実は、越後、上野などの兵を率いて白井を出発し、武蔵の分倍河原まで南下し、布陣した。持氏は、形勢の不利なるを悟り、海老名の陣から鎌倉に帰ろうとする途中、鎌倉警固に赴こうとした憲実の家宰長尾入道芳伝に遭遇し、芳伝のすすめによって称名寺に入り、のち永安寺に移った。憲実は、持氏のため将軍に謝罪を請うたが、許されず、遂に永安寺を囲んだので持氏は自殺した。永享十一年(一四三九)享年四二歳であった。基氏以来四代九〇年続いた鎌倉府は、ここに滅亡した。これを永享の乱という。
 持氏の歿後一時憲実は関東の政務に尽力したが隠退の志もあり弟清方を越後より招き、管領職を譲った。永享十二年(一四四〇)には、持氏の残党一色、舞木氏らの叛乱があり、それだけに幕府は、残党の再起をおそれ、警戒を厳にした。
 持氏の遺児安王丸と春王丸は、日光をのがれて下野国芳賀郡茂木城に兵をあげた。のち、結城中務大輔氏朝に救援を求め、結城の城に入った。傘下に集まる者には、宇都宮等綱・小山広朝・那須資重・筑波別当玄朝・今川式部丞・木戸左近将監、桃井憲義・岩松持国・里見修理亮(家基)・大須賀越後守があった。特に注目すべきは、これら豪将方には同族の争い分裂が明らかに認められ、惣領の庶子に対する統制力の欠除をうかがうことができると共に庶子の独立化が争いを大きくしていることが理解される。信濃の大井持光は、従者に永寿王を結城に届けさせ、野田右馬助氏行は下総古河に、下河辺一族も関宿を拠点に結城方に加勢した。
 将軍義教は追討命令を下し、結城城を攻撃させた。上杉憲実は清方を派遣し、千葉胤直は馬加康胤らの一族と共に両総の兵を率いて参戦した。結城城はなかなか落城せず持久戦に持ち込んだが、千葉胤直の策を取り上げて氏朝の弟山川兵部大輔を味方につけ、勢の衰えたところに総攻撃を決行し、落城させることに成功した。安王丸、春王丸は、女装してのがれるところを逮捕され、京都へ護送中、義教の命によって美濃国垂井で斬首された。また、永寿王も捕えられて京都に送られたが、将軍義教が播磨の守護赤松満祐に殺されたので管領細川持之はこれを議に付し、その結果永寿王は処刑されずにゆるされた。

3―17図 結城合戦絵巻(『房総叢書』第2巻)

 結城合戦後、上杉氏は、東国の諸将を統轄することのむつかしさを克服するため、持氏の末子永寿王を公方の地位につけ、勢力の確保を図ろうとした。請願に請願を重ね、ようやくにして将軍義成(のちの義政)の許しを得、関東に迎えることができた。永寿王ははじめは、山内の竜興院に過し、浄智寺に移って御所の造営をまった。落成後、元服し成氏と称した。管領には上杉憲実の末子憲忠を任じ、成氏を補佐させることとした。千葉胤直はもちろんのこと、房総では、安房の里見義実や武田信長らは早速成氏に仕え、大いにこれを支持した。
 ところが、成氏は父持氏と上杉氏の関係を知ることによって憲忠を憎く思うようになり、これが原因となって関東は公方方と管領方の二派に分れ、相反目するようになった。両派の対立抗戦は再度に及び、享徳三年(一四五四)十二月二十七日には憲忠の館を襲撃し、遂に憲忠ならびにその一族を殺害した。康正元年(一四五五)将軍義政は、駿河の今川範忠に成氏を鎌倉に攻めさせ、範忠軍が里見、千葉を含む成氏の軍を破って鎌倉に入ったので成氏は下総の古河にのがれた。これ以後成氏を古河公方という。

三―一八図 里見氏系図