やがて、中央においては、近世の胎動として評価されつつある応仁の乱が、京都を舞台に応仁元年(一四六七)から文明九年(一四七七)に至る約一一年間の長きにわたって繰り広げられた。関東における影響は、永享の乱後、ほとんど戦乱の止む時がなかったのでさほど目だたなかったが、東常縁が、美濃国の所領を美濃の守護代斉藤妙椿に奪われたことで帰国せざるを得なくなり、一方、幕府の威令が地におちて、諸家の動きが活発となり、ますます統制力が失われていった。また、堀越公方と古河公方の対立もこれに拍車をかけられ、一段とはげしさを加えていった。
文明三年(一四七一)三月、古河公方は一気に堀越公方を倒そうと兵を率いて伊豆に侵入したが、政知を援助した上杉軍に大敗し、古河に引きあげた。五月、上杉顕定は重臣長尾景信をして成氏を古河城に攻めさせた。古河城は遂に落城し、成氏は下総に逃れ、輔胤のもとに身を寄せた。このときの輔胤は佐倉に移っており、『佐倉市史』によると寺崎城に成氏を迎えたことが記されている。その後、千葉氏は本佐倉の根古谷城に落着くようである。『千学集』に「尾形様千葉より平山へ御越し、又長崎へ移らせられ、それより佐倉へ移らせらる。文明十六年(甲辰)六月三日佐倉の地を取らせらる。庚戌六月八日市の立て初め同八月十二日御町の立て初めなり、二四世孝胤の御代とぞ」とあることによって知られる。恐らく、長崎は寺崎の誤りではなかろうか。
成氏を迎えたころ、輔胤は五一歳であったがすでに家督を孝胤に譲っており、孝胤は千葉介となっていた。ちなみに孝胤は、『千葉大系図』によると、嘉吉三年(一四四三)癸亥五月二日の生まれで、すでに二九歳となっており、父を助け大いに活躍するところがあった。孝胤は成氏の命をうけて房総の諸将を招いたので、安房の里見義実をはじめ、上総の武田、千葉一族が集まり、更に関宿の簗田、騎西の佐々木、那須、結城らの応援を得て、文明四年(一四七二)古河城を攻めおとし、上杉の守兵を追って古河は再び成氏の居城となった。
その後、文明十年(一四七八)正月、関宿の簗田政信は、成氏と両上杉との和睦をすすめ、これを成立させたが、千葉孝胤を始め上総の両武田は大いに反対した。なかでも孝胤は最も強硬であった。特に孝胤が反対したのは、武蔵の千葉自胤を両上杉が後援していたからであり、自胤には非常に都合がよいのに対し、孝胤には不利であったからである。
孝胤は依然として両上杉に反抗していたので、太田道灌は成氏の許しを得て、孝胤を討つべく国府台に出陣した。一方、孝胤は下総の境根原に進出し道灌と戦って破れ、臼井へ敗走した。
文明十一年(一四七九)正月、道灌の弟、太田資忠と千葉自胤は、臼井城を攻撃したが容易に落城しなかったので、自胤は別働隊を組織して庁南、万里谷の両城を攻めて両武田を降し、更に、下総海上郡の飯沼城の海上師胤を討って降伏させた。臼井城を包囲していた資忠は、これで一段落と軍を引きあげようとした時、孝胤方が城中からうって出たので大いに戦い遂に城を落とし入れた。この戦いで資忠は戦死したが、自胤は両総の大半を従えることができ、武蔵に帰国した。その後、孝胤は臼井城をとりかえしたが、家運の衰微は著しく、最早昔日の勢いをもり返すことは不可能となっていた。また、成氏からも多くの武将がはなれて古河の衰えも目だち、上杉氏は再び両家の対立をめぐって争乱の止む時がなかった。
3―19図 臼井城址(佐倉市臼井)
伊豆にいた北条氏は、古河公方や上杉氏の内紛に乗じて勢力を広げ、相模・武蔵・下総方面に進出の機を狙っていた。北条氏の関東への登場により新局面の展開がみられたことは周知のところであろう。