第二項 後北条氏の抬頭

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 応仁の乱を契機として、争乱は中央から地方に移り、下剋上の風潮は一段とはげしさを加え、世はそのまま、実力の支配する戦国の動乱期に移行していった。かくてあらわれた新興の大名が戦国大名である。彼らは、旧来の伝統や権威を否定し、実力によって土地・人民を支配していった。分国法を定め、農民と村落を領国経営の基礎に据え、家臣団を編成して分国の拡大につとめた。富国強兵をスローガンに領内の開発、諸産業の興隆に意を用いたことはいうまでもない。関東においては、後北条氏をもってその代表とすることができる。後北条氏の祖、伊勢長氏(北条早雲)は駿河国の守護今川義忠の食客として身を寄せていた。義忠の死後、その子氏親をたすけて紛争を鎮め、その功績によって駿河の興国寺城主になったのが、戦国大名への第一歩であった。彼は、隣国伊豆に目をつけていた。すなわち、堀越御所では、政知が延徳三年(一四九一)四月に病歿したあと、子の茶々丸があとを継いだ。ところが、茶々丸は、継母や異母弟及び老臣を殺害した。かつての故知の旧臣らは、茶々丸に心服せず、ためにその家は大いに乱れた。この内紛に乗じて長氏は、急遽堀越を攻めて茶々丸を殺し、伊豆一国を奪って韮山に居城した。明応四年(一四九五)には、近づきになっていた小田原城主大森藤頼を、狩にことよせて勢子を城近くに入れ、夜討を行って追い払ってしまった。謀略にたけていた人物であったことが知られる。
 このころ、両上杉の対立は相変わらず和解することなく続いていた。扇谷上杉定正と山内上杉顕定の争いに早雲も一枚加わり、定正を援けて武蔵にしばしば進出した。また古河公方政氏(成氏の長子)とその子高基との争いに干渉して高基を援け、更に三浦半島にしばしば出兵して、遂に永正十三年(一五一六)七月、新井城の三浦義同(よしかね)を滅して相模一国を掌中に入れることに成功した。後北条氏五代の基礎を固め、永正十六年(一五一九)の八月、八八歳の生涯を閉じた。

三―二〇図 後北条氏系図

 嫡子氏綱は、永正十五年(一五一八)にすでに家督を譲り渡され、父の亡きあとその遺志を継いで小田原城を本拠に、武蔵・下総方面に進出した。
 先にふれた古河公方成氏のあとを継いだ政氏は、その子高基と争っていたが、永正六年(一五〇九)和解し、間もなく政氏は武蔵の久喜に退隠し、高基が古河公方となった。この翌年、政氏の二男で出家して、鎌倉の八正院に住んでいた空然が還俗して、義明と名を改めた。家へ帰ると父と兄の間が不穏な関係にあり、義明自身も父と不和になったので家を出て奥州に漂泊した。万里谷武田と、千葉氏にかわって勢力をもつ小弓の原との争いが起り、武田信保は、争いを有利に導くため、使者を派遣して義明を迎え、主と仰いだ。ここに武田の勢威がしばらく振い房総の諸将の来属もあったので、永正十四年(一五一七)十月、武田信保は小弓城を攻めて原を追い、義明を小弓に居城させた。世にこれを小弓御所または小弓公方と称した。兄の古河公方高基と対立し、高基は北条氏や千葉氏、原氏を後楯としていたのに対して、義明は上総の両武田、里見らの支持をうけ、古河公方にかわって関東の主にならんことを望んでいた。

3―21図 小弓城址略図    (『史蹟名勝天然記念物調査』大正15年3月)

 このころの千葉氏の勢力は全く不振の一語につきる。臼井城の攻防戦に敗退後、臼井城を奪回したが、実権は原氏の掌握するところとなり、次第に主役の座から脇役へと落ちていった。孝胤の没後(永正二年)は長子勝胤があとを継ぎ、『千葉大系図』によると「勝胤は小田原北条氏と心を通じ、而して後、縁座して互に盟いて好を深くせり」とあり、北条氏に心を寄せていたことがわかる。