第三項 土気の酒井氏

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 小弓公方義明を支持した武将に酒井氏がいる。土気を本拠に、東金にも城をかまえ、なかなか優勢であった。
 酒井氏の祖、越中守定隆は永享七年(一四三五)遠江に生まれ、京都に出て足利将軍に仕えた。余りにも微禄なため、官を辞して主従四人と共に関東に下り、古河に至って公方成氏に仕えた。さきにふれた上杉顕定の重臣長尾景信の古河城攻撃によって落城し、成氏は佐倉に逃れ、房総諸将らの応援を得て文明四年奪回したが、この間、成氏の動きにいささか失望するところがあって、仕え甲斐なき人物とみてとり、古河城を去って安房里見氏の初代義実のもとを訪れた。時に、里見氏は武田の支配する上総へ領土の拡張をはかりつつあったころだけに、定隆ら四人の望みを入れ、若干の兵員を与えて両総の境付近に地歩をかたむべきことを勧説した。彼らは、下総国千葉郡中野村に至って居所を定め、まずは民心の収攬につとめた。文明十年(一四七八)の境根原の戦や臼井の戦にも従軍して原胤房らを援け、外患を除くと共に民治に力を注ぎ、その功によって上総の三分の二を与えられたといわれる。長享二年(一四八八)にはもと畠山重康の居城であった土気古城を再興し、ここに移った。のち、後述のように顕本法華宗の改宗につとめ、民治に意を用いること約三〇年余り、大永元年(一五二一)には剃髪入道して清伝と号し、土気城を長子の定治に譲り、定隆は、定治の弟隆敏を伴って田間城に入り、しばらくして東金城に移った。翌年東金城の修築が成り、定隆は八八歳で城中に没したといわれている。定治、隆敏は土気、東金と分立したが、一致協力して父祖の遺業を受け継いだことはいうまでもない。『東金城明細記』などによって土気酒井の領土を瞥見すると、長生郡の旧本納町、豊田村、新治村、二宮本郷村、茂原町(大芝を除く)、高根本郷村、白潟村、豊岡村、関村、東郷村(字本崎、谷本を除く)から山武郡の土気町はいうまでもなく、山辺村、瑞穂村、大網町、大和村、白里町に及び、更に市原郡の市東村、湿津村、千葉郡の白井村(南部)と誉田村(北部)がその領域であったと考えられ、山武郡の西部から、長生郡の北部、市原郡と千葉郡の一部を加えた地域であったと想定されている。

三―二二図 酒井氏系図


3―23図 土気城古図    (『史蹟名勝天然記念物調査』大正15年3月)

 武力については、『東金記録』によると「酒井家五代の間、幕下の郷士軍役を勤むるものは七百騎、地戦には千騎余のよし。今時の風とは違い、軍役の時には、身に耕し、夫々農業致したるよし。馬は野馬をつれ来る事故騎馬は多きよし也」とあり、武器については、「軍器の事も、今の様とは違い、甲冑など首尾して持たる者なく、甲も面々持ちたるにてあるまじく、冑は尚更取持はなき事にて大方竹具足を用ゆ」と記されている。平時は農業に専念していたことが知られ、戦闘における装備の不完全さを如実に物語っている。戦闘状態に入る段取りについては、『土気古城再興伝来記』が次のように伝えている。すなわち、「城中にて鐘を撞き、太鼓、貝を吹く時は耕地より直ちに上り、先づ帳面に付き、一番鐘を撞く時は兵粮を運び、二番太鼓を打つ時鎧甲を着し、その外よろづ支度を整へ、三番貝を吹く時、御家中その外名字の百姓まで残らず城内へ相詰むべき由、御触出しなり」とあって頗る興趣を覚える。領国経営の一端を示す資料として極めて重要なものたることは贅言を要しない。
 さて、定治の活躍についてもふれておかねばならない。
 北条氏は三浦義同を滅して以来、房総とは海を距てて相対することとなり、安房の雄里見実堯は、小弓公方足利義明を鎌倉の主になさんことを期待して、大永六年(一五二六)十二月、武蔵金沢に上陸、鎌倉に侵入している。この鎌倉出陣に際して土気の酒井伯耆守定治は、実堯に従って功をたて、小弓公方のために軍忠をはげんでいたことが知られる。
 その後の里見家の当主となったのは義豊を経、実堯の子義堯であり、彼は北条氏に対して敵意をあらわにしており、両武田、土気、東金の両酒井、万木の土岐もこれに従い、共に小弓公方の下風に立っていた。千葉、原ももともとは北条方ではあったが、表向き小弓公方と和親関係を保っていたので、房総は概ね義明の勢力圏内に置かれていた。
 古河公方高基は、弟の義明の勢威が盛んになるにつれて、ますます不満を高め、北条氏と同盟を結び、嫡子亀若丸(晴氏)に氏綱の娘をめとらせた。こうして氏綱と高基は連合し、両上杉及び小弓公方に対抗した。しかるに、享禄四年(一五三一)四月、高基は家臣のため逐われ、晴氏が公方の座にすえられた。上杉の衰えは一段と加速化し、氏綱の攻撃をうけて川越城は落城し、遂に回復をはかることができなかった。やがて、氏綱は、鋒先を東に転じ、関東の主帥たらむと野心をいだく義明に向け、両者の衝突は、早晩免れがたい情勢下におかれた。そこで、晴氏は、義明が未だ出陣しないのに乗じ、その機先を制すべく、千葉介昌胤及び原胤清らも北条氏にしきりに出動を勧説した。こうして、国府台前役の戦端は開かれたのである。

3―24図 国府台古戦場跡(江戸川より市川市国府台を望む)

 義明の軍は、子の義純、基頼をはじめ、安房の里見義堯、真里谷の武田信応、庁南の武田上総介宗治らであり、土気、東金の酒井もこの戦いに参加すべく催促をうけたが、戦場に到着する前に勝敗が決したので途中から引き返した。時に天文七年(一五三八)十月のことであった。この戦の結果、義明は戦死し、義堯は退却した。房総軍は大敗を喫し、このために房総の形勢は大きく変革を余機なくされていった。千葉、原は早速、北条氏の傘下に入ったことはいうまでもない。上総の武田も北条氏に帰属した。土気、東金の酒井は、表向きは北条方に属するが如くであったが、明瞭ではない。