第四項 長尾景虎の関東侵入

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 天文十年(一五四一)七月、北条氏綱は五五歳で卒去した。その子氏康が父祖の遺業を継承し、両上杉の領土に侵入を続けた。天文十四年(一五四五)には、駿河を侵略し、武田信玄の援助のもと、今川義元と戦った。山内上杉憲政は、好機とばかり、扇谷上杉朝定にすすめて川越城を攻撃した。憲政の威令に以外の根強さを知った古河公方晴氏は、北条氏康と関係を断ち憲政を支援した。翌年、氏康は、川越城の救援に八千の兵を投じ、上杉軍を大いに破った。この戦で、朝定は戦死し、扇谷上杉は滅亡し、憲政は上野の平井に逃れた。その後、天文二十一年(一五五二)正月、氏康は、憲政を平井城に攻めたので、憲政は越後に走り、長尾景虎のもとに身を投じた。こうして、山内上杉も滅びていったのである。天文二十三年(一五五四)に入ると、氏康は古河公方晴氏、藤氏を攻めてこれを捕え、相模の波多野に幽閉して家督を義氏に相続させた。ここに氏康に敵する勢力は、概ね削除され、名実共に関東大守にふさわしい実力をそなえるに至った。下総の大半も北条氏の分国となり、交通網の整備が急がれた。
 永禄三年(一五六〇)八月、越後の長尾景虎は、関東管領上杉憲政の入国に供奉(ぐぶ)するという名目で越後の春日山城を出発し、上野の厩橋城に入った。岩槻城の太田三楽斎資正に命じて関東の諸将に催促状を出した。諸将は厩橋に集まり、足利義氏のいる古河に向った。一方氏康は川越に出陣し、ついで松山城に進んで武田信玄に救援を求めた。信玄は長尾の後方攪乱を図るべく、加賀・越中の一向一揆に越後を攻略させようとしたので、景虎は一旦帰国した。
 翌年三月、関東の兵を結集した景虎は、大挙して小田原城を包囲した。しかし、北条氏の籠城戦術にあって長陣の不利をさとり鎌倉に引きあげた。鶴岡八幡宮の社前で上杉憲政から正式に関東管領を譲られ、上杉氏を称し、政虎と名乗った。そして六月には越後に帰国した。この間、房総においては、長尾景虎の関東出馬に呼応して、里見軍は佐倉を攻めている。正木大膳は、原胤貞の守る臼井城を攻略し、更に生実城に攻寄せたが、千葉介胤富は原胤貞を先頭に立て反撃して正木の軍を破った。
 長尾景虎の関東出動を大いに助けた一人に太田三楽斎資正なる人物がいた。太田道灌の曽孫で武蔵の岩槻城に居城した。永禄六年(一五六三)、上杉謙信(長尾景虎)の関東出馬を機とし、北条氏打倒の大計画をたてるに至った。しかし、この策謀は、意外にも早くもれ、北条方は機先を制すべく出動の準備をすすめた。一方、資正も猶予しがたいことを知り、里見義弘に通告して出陣を促し、自らも永禄七年(一五六四)の正月早々、国府台に陣をしいた。
 北条氏康は、里見出陣の報をうけて軍備をととのえ、小田原を発して国府台に向った。その軍勢二万騎といわれ、天文七年(一五三八)の前役より双方の動員兵力も戦場の区域も大であった。
 北条軍は、江戸城主遠山丹波守直景と富永三郎右衛門尉が先頭になり江戸川渡河を行ったが、かえって正木時茂、太田康資らに打たれ敗北を喫した。そこで氏康は、渡河地点をやや、上流の下矢切の搦木の瀬に移して上陸に成功し、氏政は真間方面から国府台を挾撃する作戦をすすめた。里見軍は潰乱状態に陥り、義弘、正木時茂らは上総に逃れ、太田資正も負傷しながら敗走した。勝利した北条軍は房総軍を追撃したが途中、稲毛浦でこの危急を救ったのが土気、東金の両酒井であった。ここにまた、両酒井は出陣に遅参したのである。余勢をかった北条軍は西上総に侵入し、池和田城、小糸城を落とし、翌永禄八年(一五六五)には、土気城の攻撃を行った。北条氏政は二月十二日に攻撃を開始、酒井胤治はその子の康治と共によく防戦につとめ、度々勝利したほどである。しかし、多勢に無勢、書を里見氏におくり救援を求めたが正木時忠の反乱によってそのいとまなく、越後の老臣河田豊後守長親におくり、上杉謙信の救援を要請した。謙信の春日山出発の報が伝わると関東の諸将は驚き、氏政は囲をといて退却した(東金酒井は氏政に属し土気を攻める)。
 その後、永禄十年(一五六七)に臼井城主原胤貞は土気城に至り、土気、東金の両家の対立はお互いのためにならないことを説いたので、胤治はここに里見氏との盟を断って北条氏に降伏した。嫡子康治を人質として小田原に送ったが、のちにその子重治、正治を赴かせ、康治は土気城に引きあげた。
 永禄九年(一五六六)二月、上杉謙信は、下総の西北部に侵入した。このとき、里見義弘に五百騎、土気の酒井胤治に百騎、関宿の簗田中務少輔政治に百騎、結城の結城政勝に二百騎、野田の野田政朝に五十騎の軍役を課している。謙信は、臼井城の原胤貞を攻めた。胤貞はよく防戦につとめ謙信も攻めあぐんだといわれる。謙信軍はかなりの死傷者をだし、敗退した。