3―25図 胤富の寄進状<千葉寺蔵>
『千葉大系図』によると、胤富には、一男一女のあったことが知られる。嫡男邦胤は弘治三年(一五五七)三月二十二日に生まれ、母は胤富をバックアップした海上山城守の娘であった。小笠原長和の研究によれば、元亀二年(一五七一)十一月、佐倉妙見宮で元服の式をあげたという。時あたかも房州の里見義弘が小弓城を攻撃中であったから、千葉家伝統の元服の儀式を千葉妙見宮で行うことができず佐倉でこれを行った。また邦胤の妻は、北条氏直の姉に当たる人であり、北条との祝言は天正五年(一五七七)閏七月かとも考えられるが、明確でないという。邦胤は、天正七年(一五七九)五月、胤富が没すると二三歳で家督を相続し千葉介となった。
邦胤の主要な動向を小笠原の研究から拾ってみると、まず、天正七年十月、印旛沼の東方台地にある竜角寺に修理料所を安堵し、翌八年二月同寺の炎上に際してはその再興に努めている。また同年四月には、香取郡矢作郷の条規定め、八月には、上総坂田城主井田刑部大輔に対して、近辺での鉄砲の停止を命ずる印判状を出している。天正十年(一五八二)二月二十八日には、原豊前守の所領下総印西外郷を守護不入の地とした。同年五月十四日香取郡矢作城の国分兵部大輔が邦胤に対して逆心をはさんだので、邦胤は出兵して領分を取り返したが、この戦闘で軍功のあった原若狭守に対して木内庄小見郷の田畠を与えている。一般的には、邦胤の時代の下総は、やや小康状態が続いたらしく、激しい戦乱は皆無だったようである。天正十三年(一五八五)五月二十九日、邦胤は近臣鍬田某のため殺され、二九歳の若さで死歿した。佐倉城中で鍬田が邦胤から恥辱をうけたことに起因し、怨恨により殺されたのであるという。
邦胤の嫡男重胤が家督を相続したが幼少のため、原氏がこれを補佐する。臼井の城主原式部少輔胤栄(しげ)が千葉の家政を管理した。のち重胤は、天正十六年(一五八八)北条氏直に招かれて小田原に赴き、城中で養育されることになり、設楽左衛門尉が左右に侍したが、これは体裁のよい人質であったといわれる。また天正十八年(一五九〇)三月には、重胤の生母岩松氏も人質として身柄を小田原に移されている。
これより先、天正十七年(一五八九)六月、豊臣秀吉は小田原の北条氏政、氏直父子に上洛を促した。ところが氏政はこれに応じなかったばかりか十一月には沼田城主の北条氏邦に命じ、上野国名呉桃城を攻略させたので、秀吉は諸大名に軍令を発し、北条氏を討つことにした。
一方、北条氏は領国内の諸豪に命じ、精兵を選抜して小田原に来会させ守城につかせた。このとき両総から赴いた者は、千葉新介重胤、原式部大輔胤義、土気城主酒井伯耆守康治、東金城主酒井左衛門尉政辰、万木城主土岐頼春、庁南城主武田兵部少輔信栄、真里谷城主武田信高、小金城主高城胤則らであった。戦いは持久戦にもち込まれたが、秀吉は他方、浅野長政、木村重茲、本多忠勝、酒井忠次、平岩親吉らをして房総の諸城を攻略させた。これら房総の諸城は無抵抗に近い状態で落城したといわれる。かくて、小田原城は孤立無援の状態に陥り、秀吉の物量戦術にはひとたまりもなく、天正十八年(一五九〇)七月五日開城を申し出た。十一日に氏政・氏照は自刃したが、氏直は高野山に追放され、里見を除く房総の諸豪も北条氏と運命を共にした。
ここに、秀吉による天下統一が成り、関東には徳川家康が封ぜられ、また新たなる時代を迎えるのであった。