第六項 日泰と七里法華

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 七里法華は、上総七里法華ともいわれ、土気城主酒井定隆が、什門派(日蓮宗妙満寺派)の日泰上人に帰依し、領内七里四方にわたって日蓮宗に改宗させた一種の宗教改革である。管見によれば、備前法華と阿波の三好長治による皆法華と共に有名である。前者は、南北朝時代の初め、日像の高弟である大覚大僧正によって備前に日蓮宗が伝えられた。大覚に対して宗論をいどんだ真言僧は論破されて、かえって大覚に帰依し、更に本地方の領主であった松田元喬は、はじめ、転宗をなげいたが、大覚に感化され、日蓮宗に転じた。のち、松田氏の保護のもとに室町時代の中ごろから戦国時代にかけて、西備前の他宗寺院の多くが日蓮宗に改宗されたことでよく知られている。
 後者は、阿波の三好長慶の弟、長賢が、深く日蓮宗を信仰したのにはじまる。三好長賢の子、長治は更に徹底した法華信者で、天正三年(一五七五)に、阿波国内に法華信仰を強制し、他宗寺院の出入を禁止した。しかし、最後は真言僧の抵抗をうけ、混乱を招く恐れが生じたので和解した事件である。これらと比較した場合、七里法華は、小規模であったかも知れないが、酒井の領内隈なく法華信仰に転宗させたところに大きな意義をもっている。しかしながら、この七里法華に関する根本史料は目下のところ皆無といわざるを得ない。したがって、諸家は概ね、『土気城雙廃記』『土気古城再興伝来記』『南総酒井伝記』などの伝書によってこれを紹介しているのが現状である。ことに、前記の二著が委しく、およそ次のような経緯をたどることができる。
 酒井定隆は、古河公方成氏のもとを辞し、安房の里見氏のもとへ赴く途中、品川で便船を求め、下総の浜野村に渡ろうとした。ところが、品川を出て一里ばかり進んだところで、南からの猛風に見舞われ、船は木の葉のように翻弄されて、乗船の人々は顔色を失い、周章狼狽すること限りがなかった。『南総酒井伝記』によれば、定隆は、大志をいただく身であるので、このまま海中の藻屑になってしまうことは実に残念だとなげき、牙(歯)をかみ、拳を振りあげて、天道は我が武運を助けてくれないのかと呪ったことが記されている。しかしながら、この船に乗り合せていた僧日泰なる浜野本行寺の住僧は、船の舳先に立って、修法を行い、呪を誦して祈祷すると、不思議にも風はたちまち静かになり、旅客は危難をさけることができた。

3―26図 戦前の浜野本行寺

 酒井定隆と僧日泰の出会いは、実に、この風波の荒れ狂う江戸湾上の船中においてであった。このことがなかったならば、あるいは、七里法華は成立しなかったかも知れない。今少し、その後の経緯を追ってみよう。
 定隆は、主従四人と共に、その法力に感嘆し、「貴僧はいかなるお方で」と問えば、上人は拙僧は、江戸品川本光寺と下総国浜野村本行寺の住僧で、法華経の行者でございます。今日、難風による災難を救いましたが、これは皆法華経の力によるもので、法華経のすぐれている点は、数えきれない程にございますと説経流れる如く申されたとしるしている。定隆らは、日泰上人との邂逅をよろこび、みずからの出世の瑞相と感激し、武運の祈願を求めた。そして「志が達成されたならば、御礼は望み通りに差上げたい」と、定隆は深い信心を寄せた。これに対して日泰上人は、「私の一生の願いは、信ずるところの法華経を天下にひろめたいことにあります。あなたが、もし、一城の主となったならば、領地をのこらず私の宗門にして頂きたい」と申しのべた。そこで定隆は、畏りて「必ず必ず一城の主となりました暁には、お望み通り、尊僧をお迎えしたい」と約束した。以上、船中の談話は、『南総酒井伝記』の記述によったが、『土気古城再興伝来記』は、全く異った談話を載せているので、参考までにふれておこう。
 まず、定隆は、武運出世の法を質問している。日泰は、源頼朝の故事をとりあげて、頼朝が兵馬の権を掌握したのは、実に妙法に帰依することによってのみ、その志を遂げることが可能であったことをさとしている。また、定隆は、重ねて問を発し、「武門の家に生まれて、多くの〓敵をうち倒しているが、罪障は果たして消滅するものかどうか」とたずねているが、上人は、宗祖日蓮の教えを語り、つねに法華経を信じ「南無妙法蓮華経」の題目を唱えれば、必ず救われると説いた。定隆はすっかり魅了され、「国を治め掌に握る時、領内の黎民をして悉く泰師の妙法に帰依せしめ、今日の御社といたしませう」と、船中において約束したとある。
 船は、浜野につき、下船した定隆ら一行は、上人の招きをうけて本行寺に同道した。湯漬飯を御馳走になって、閑談に時を過し、辞するに当たっては、武運の祈願をお願いし、上人の見送りをうけて安房国へ旅だった。『南総酒井伝記』はその末尾に「これぞ上総国七里法華の基とはなれりける」と結んでいる。

3―27図 日泰上人・酒井定隆公の難船を救う図<宍倉健吉氏提供>

 時は移って、定隆は、中野から土気城に移り、東総の一部を治下におさめると、日泰上人を土気城内に迎えた。
 城内の旅館において饗応をうけた日泰は、昔語りをして「かねて約束したことであるが、何卒法華宗の一寺を建立たまわりたい」と所望した。定隆は、これに答えて「今建っている御旅館を、早速、御寺に致しましよう。」と申したところ、上人は、如意宝珠山本寿寺と名づけ、ここを住居に定めた。更に、定隆が、土気城の南にあった真言宗の一寺にも、山号寺号を求めたので、上人は、宝珠山善勝寺という寺名を与え、また、定隆は「某、先年中野村に居住しておりましたが、ここは某の支配地でもあります。ここにも一寺を営み、村民の為、泰師をお迎えしたい」と申したところ、上人は大変よろこんで、一寺を建て「酒井の本城なれば」ということで、長秀山本城寺と号したことが記されている。
 なお、諸書の伝えるところによれば、定隆は長享二年(一四八八)五月に領内に改宗令を発布した。参考までに記すならば、
  此度、御領内村々思召をもって、法華宗に仰せ出され候。尤も是迄法華宗の所は其儘に置かれべく外宗の儀は残らず日蓮宗に相なるべく、若し違背の者あるにおいては、曲事たるべき者也
    長享二年五月一八日
                     奉行 栗原助七郎
                        宮島伝七郎
           右村々名主中
とある。
 ここにおいて、土気を中心とする酒井領国は、悉く京都妙満寺派を本山とする顕本法華宗に所属した。ちなみに、顕本法華宗すなわち日蓮宗妙満寺派についてふれておこう。
 妙満寺派の派祖は、玄妙阿闍梨日什(一三一四~九二)である。岩城国会津の産、はじめ叡山に登って慈遍僧正に師事し、学成って山門の学頭となる。康暦二年(一三八〇)六七歳のとき、郷里に帰り、羽黒山東光寺で学を講じたが、日蓮所述の『開目抄』、『如説修行抄』を見て転宗する。富士・中山等において宗義を探究し、六八歳にて上洛する。二条良基に謁見し、康応元年(一三八九)京都室町に妙塔山妙満寺を建立する。明徳二年(一三九一)将軍義満に諫〓したが入れられず、会津妙法寺に帰って入寂した。門下に六老があり、七里法華開祖の日泰は、このうちの日仁の流れを汲んでいるといわれる。
 日泰上人は、永享四年(一四三二)十月十四日、洛北の白川に生まれ、一九歳にして妙塔山妙満寺の寂光院日遵の弟子となり、名を心了と改め、長禄三年(一四五九)東国伝道を志して下関し、品川本光寺に住した。また、下総国浜野村の一廃寺をおこして本行寺と称し、下総方面の布教活動の拠点とした。前述のとおり、酒井定隆の招請により七里法華の開祖となるも、のち明応五年(一四九六)上洛して権大僧正となり、妙満寺一六世を嗣いでしばらく京に留まったが、再び下関し、本行寺において、永正三年(一五〇六)一月十九日七五歳にて遷化した。日泰の活躍は、『日本仏教史』によると、「日泰に象徴される洛内門流の東国への伝道は、日像の上洛以来、関東よりつねに西上していた教線の流れが、戦国期に入ると逆に洛内より東国に還流し始めたことを示し、名実共に教団の主流的立場が、西国に移行しつつあることを物語るものであろう」と指摘されており、京都に定着した日蓮宗教団の東国還流を物語るものとして注目される。
 さて、長享二年の改宗に際して、どの程度の抵抗があったかは明らかでないが、管見によれば、東金市田中の西法寺の如く堂宇を破却された例や、成東町蓮台寺の各地への流転、茂原市竜鑑寺の住僧の逃亡などがあげられる。仏像・仏具・経典の処理のため経塚等が築かれ、今日、その跡を伝えるところが残されている。いずれにしても、改宗は、成功裏のうちにすすめられたように思われ、旧行政区で四郷三二カ町村、二七四カ寺に及んだことが知られている。
〔附記〕主要参考文献
   第三節並に第四節執筆に際しては、いちいち注記しなかったが、『千葉県史明治編』。『房総通史』。渡辺世祐著『関東中心足利時代の研究』。永原慶二著『日本封建制成立過程の研究』。根村正位著「土気東金の両酒井」(『東金史話』所収)。『佐倉市史巻一』。百瀬今朝雄著「下総国における香取氏と千葉氏の対抗――東国における南北朝変革の一性格――」(『歴史学研究』一五三)。小笠原長和著「戦国末期における下総千葉氏」(『軍事史学第五巻第四号』)を参照させていただいた。ここに明記して、感謝の意としたい。