第二項 幕府政治と支配の特質

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 徳川家康が江戸に幕府を開くに至るまでの数年間に千葉を中心とする上・下二総の様相は大きく変ぼうしていった。
 千葉はまもなく完全に、房総の一農村として徳川幕藩体制の統治下におかれることになる。
 また、初期の家康と房総の関係を示す史料としては、千葉市大巌寺の大巌寺・安誉(あんよ)上人に宛てた天正十八年五月二十三日付の書状が存在する。この内容は「当表(小田原)出陣につき手紙と贈り物をいただきました。わざわざ遠方よりの御配慮に悦んでいます。くわしいことについては使僧が申し述べるでしょう。恐々謹言」(『千葉県史料中世編 諸家文書』所収、要約)。この文面によっても、すでに小田原落城以前に家康と下総国生実郷にある大巌寺と関係があったことがわかる。さらに家康は、この年七月に大巌寺保護のための禁制を出している。その内容は、大巌寺に対して、軍勢の乱暴・放火・殺生・門前百姓に対する不法行為・竹木の伐採を禁じたものである。家康は、このような社寺領の安堵に関する朱印状、あるいは寄進状を、天正十八年以降、文祿・慶長年間に房総の各地に出している。家康がとったこのような社寺対策は、各地の社寺を領民統治のかなめとして活用しようとしたもので、これは徳川幕府の政策の一つのポイントであるといってよいであろう。すなわち徳川幕府は封建的秩序を維持する必要上複雑な身分制度を定めているが、士農工商の身分以外に、僧尼と神官を教化階級として特別な身分にして、神官は武士と同様「苗字帯刀」を許し、官位を与えた。

大巌寺領絵図(宝暦9年)

 また家康は、関東入国後徳川氏の直轄地を江戸付近に集中させ、家臣団の配置は、小知行取を江戸付近に置き、大知行取は遠方に置くことを基本方針としていた。そのため江戸に近い上総や下総には各地に旗本領がおかれている。その代表的なものをあげると上総では、茂原の大久保治右衛門忠佐五千石・五井の松平紀伊守家忠五千石・小磯の本多作左衛門重次三千石・勝浦の植村土佐守泰忠三千石・山口の坪内喜太郎利定二千石であった。下総では生実の西郷新太郎家貞五千石・佐倉内小佐子の本多縫殿康俊五千石・佐倉領内の久野民部少輔五千石・小南の松平隠岐守定勝三千石・佐倉領内飯沼の松平外記伊昌二千石・佐倉領内の山本帯刀頼重一千石などがみられる。また一国内の郷村を分散して、知行される「分散知行制」の例もみられる。
 次に分散知行の例をあげよう。
  1 中山勘解由の知行(旗本)
 東寺山村 二四四石
 西寺山村 一五八石一升二合
 高品村 二一六石
   (宝暦には三〇〇石)
 作草部村 四一〇石
 萩台村 一八六石
 宮野木村 三七六石中の一部を給付されているが詳細不明
  2 山名図書の知行(旗本)
 西寺山村 七二石九斗八升八合
 薗生村 三九一石(一給)
 小仲台村 四七一石(一給)
 このような中級以下の家臣団の知行地を江戸近辺に置いたのは、彼ら旗本は徳川氏の直属の常備軍とされていて、いざというときには、直ちに出動できる態勢をつねに整えておこうという配慮があったためであるとみなされている。
 一方房総に配置された大名は、すべて譜代大名であった。このなかで城持大名は、佐倉・古河・結城・大多喜・久留里・佐貫・関宿の七藩で、初期には上総大多喜に配置された徳川四天王の一人、三河譜代の最古参の重臣本多忠勝が一〇万石で最大であった。後に、寛永十九年(一六四二)一月信州松本城より佐倉に転封された堀田正盛の一一万石が最大となり、これが後期堀田氏にうけつがれ幕末まで継続されることになる。
 天保十年(一八三九)の目録を見ると下総国千葉(現千葉市周辺)郡内三一カ村が佐倉領内に入っている。
 房総に配置された大名は小祿ではあるが、幕府政治上、重要ポストにつく資格をもったものが多かった。一例をあげれば、非常の際におかれる大老職に任ぜられる資格のある家柄は、徳川氏譜代の名家、酒井・土井・井伊と佐倉の堀田家が入っている。
 房総には、天領が多く置かれていたことを前に記したが、千葉周辺の天領の数は、千葉郡内の村落数一二八カ村中二二カ村である(『千葉県史』通史明治編第一六表)。この天領の支配の特質は、勘定奉行の下に郡代・代官がおかれていた。関東郡代だけは、老中に直属し寛政四年(一七九二)まで伊奈氏が世襲でこの職務に当たった。代官の職務は年貢米の収納と江戸への廻送であった。また年貢の収支決算は、「地方御勘定帳(じかたおかんじょうちょう)」に記録されて、勘定所に提出されて検閲されるようになっていた。ともかく、千葉をふくめて房総地方は、支配組織のうえからみて、大名領・代官領・旗本領・寺社領などが複雑に入り交っており、領主が村落を支配する場合、外様領にくらべて多くの困難がともないがちであった。村役人である名主・組頭・百姓代は村方三役といい、当初から三役が整備されていたわけではないか、支配組織の最末端機構をかたちづくったのである。
 徳川幕府は、民治政策の一つとして、五人組制度を設けたことはよく知られていることである。これは、古来の「結(ゆい)」のような社会協同生活を導入したもので、次のような形式をとっている。
   五人組帳前書 生実藩(おゆみはん)
  (表紙)
 「明和九年
 下総国千葉郡 辰御改五人組下帳
    三月    南生実村」
     五人組前書の事
一、御公儀様御法度の旨、御高札並びに御触書の趣、何事に依らず、堅く相守り申し候事、
一、切支丹並びに邪宗門御制禁の趣、毎年御改め仰せ付けられ候通り堅く相守り、切支丹宗門之者これ有り候はば、早速申上げべく候事、
  (中略)
一、奉公人召抱え候節は、男女共に堅く請人手形を取り召抱え申すべく旨、仰せつけられ畏れ奉り候事、
一、通り猟師宿、村中にて堅く仕らせまじく候事、
  (以下略)
 明和九年辰年  南生実村
                        組頭 与市
                        同 彦左衛門
                           (中略)
 吉田元右衛門様                  名主 小兵衛
 
  本百姓家持    歳五拾三    源左衛門
  右同断家持    歳四拾三    善右衛門
  三郎左衛門子   歳拾五     長蔵
  平六下男     歳三拾四    新蔵
  本百姓家持    歳四十六    長左衛門
  水呑女家持    歳三拾一    庄兵衛女房
                        〆六人(後略)
 右の史料は明和九年(一七七二)三月、当時森川藩一万石の領内にあった南生実村(現・千葉市)の五人組帳前書の一部で、前書は十カ条から成り、将軍家から出された法度を堅く守ることを記している。前書の最後に名主小兵衛・組頭与市・彦左衛門のほか、喜右衛門・次右衛門・彦兵衛・太郎右衛門・平左衛門・庄五郎などの村役人の名がみられ、五人組の名が身分・年齢などとあわせて記述されている。これをみると当時、この村に一九組の五人組があったことがわかる。
 米が幕府の経済の中心であったため生産者である農民の実態は、かなり綿密に調査され、把握されていた。また年貢の怠納があれば、幕府の経済基盤にひびが入ることは当然なので、連帯責任を負わせるシステムが五人組の重要な機能であった。
 当時の年貢は、税金といっても、領主の家臣への給付用として徴収されるものであって、納税者への還元あるいは公費がこれによって、まかなわれるというものではない。領主が出府するときの経費(森川藩の例)まで、村々に分担させている。これは当時の一般的な傾向であったようである。