第三項 検地の断行

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 封建制度の特色として、主君と家臣の主従関係があげられる。主君は家臣に土地を給地として与えた。これを御恩として、家臣は主君に対して忠誠を尽くす・奉公の関係を成立させるということが原則となっている。しかし、これらの関係も時代の変遷とともに内容が変質していくことは当然であろう。
 信長や秀吉は、大名領地制を確立させていき、従わないものは武力をもって打倒し、功ある者にこれを与えて領有させ、従う者には、その所領を安堵(あんど)し旧来の兵馬・行政・収税の権限を朱印状によって保証した。
 徳川家康もこの制度を踏襲し、関東入国以後も、たくみな家臣の配置策を行いながら伊豆から検地を実施している。
 検地は、大名が自己の支配する土地の実状を調査し、土地制度を整備する必要性とあわせて近世石高制の基盤を確立させる上で重要な意義があったといえよう。その内容は、一歩を六尺三寸四方と定め、三百歩を一反とし田畑の石盛(こくもり)を定め、その田畑の品等を上・中・下(げ)・下々(げげ)の四等級に分類し土地の生産性を算定したものである。これは天正から文祿年間に実施された「太閤検地(たいこうけんち)」の原則であるが、家康もこれをほぼ原則として採用している。
 房総の検地は、家康の関東入国の翌年、天正十九年(一五九一)の下総検地からはじまった。千葉市の場合、平川郷(現平川町)に天正十九年の検地帳がみられる。
    天正十九年検地帳
  (中表紙)
「天正十九年辛卯 小宮山八右衛門
 下総国千葉庄平川郷御繩打水帳
 七月二日 [  ](案内カ) [   ]衛門
                [   ]衛門
                         」
 
八間半  半なか
八間   中畠弐世(ママ)八歩      源四郎作
 
拾弐間     同所
五間壱尺  下畠弐世弐歩         与三右衛門作
 
拾間半     同所
六間半   下畠弐世八歩         の五郎作
 
弐拾弐間    同所
拾弐間弐尺 中畠九世壱歩         二郎右衛門作
 
六間      同所
弐間    下畠拾弐歩          右衛門作
 
三拾弐間    中田作
弐十弐間  中畠弐反三せ拾四歩      藤右衛門作
 
六間      同所
六間    下畠壱せ六歩         五郎次郎作
六間      同所
弐間半   下々畠拾五歩         [    ]作
 
   文祿三年検知帳
 (表紙)
「                    御達報村
  御達報村御繩打水帳写
   文祿三甲午年三月              」
 
 壱番   稲荷脇
  下畑   拾三間
       五間    弐畝五歩    軍蔵
 
 弐番   右同所
  同    拾四間
       五間半   弐畝拾七歩   縫右衛門
 
 三番   寺之脇
  下々畑  六間
       四間    弐拾四歩    藤十郎
 
 四番   右同所
  同    八間半
       三間    弐拾五歩    同人
 
 五番   右同所
  下々畑  拾間
       四間半   壱畝拾五歩   長吉
 
   (中略)
 
 七十一番 沼道
  下畑  拾間
      四間半    壱畝拾五歩   茂十郎
 
  下畑六反四畝弐拾九歩
  下々畑四反壱畝弐拾弐歩
  畑合壱町六畝弐拾壱歩
 
 紙数拾弐枚
  内墨付拾枚
                   名主 七郎左衛門
                   組頭 嘉七郎
                   同  吉十郎
                   百姓代又右衛門
 
 右は文祿三年(一五九四)三月に実施された御達報村(ごたつぼうむら)(千葉市蘇我五田保)に実施された検地帳であり、天正十九年平川郷検地帳とともに「御繩打水帳」と命名されている。検地帳には実施の月日、代官役人名、案内者の名などが表紙に記され、内容は、それぞれにみられるように、番号・小字・耕地のたて・よこの長さ・等級・面積・名請人(保有者である百姓名)が記されている。千葉の二つの検地帳にみられる特色としては、畑の等級は、ほとんど中か下であることは千葉の土地の地味があまりよくなかったことを意味しているといってよいであろう。また同時に、千葉は農業生産的な地域であったことが、これら一連の検地帳をとおして考察しうるであろう。なお天和二年(一六八二)千葉が佐倉藩領(藩主・松平氏)当時の検地関連史料「下総国千葉郡千葉町指出之事」によって生産高をみると次のようになる。
 千葉町の村高 天和二年
  田地 五八町五反三畝二五歩
   高 六一二石五升三合
  内訳
   上田 二四町六反四畝七歩
        石盛 一三斗
   中田 一八町八反三畝一五歩
        石盛 一〇斗
   下田 一五町 六畝三歩
        石盛 七斗
  畑地 二八町七反二四歩
   高 百五十石二斗九升七合
  内訳
   上畑 九町二反八畝六歩
        石盛 八斗
   中畑 八町八反八畝五歩
        石盛 五斗
   下畑 一〇町五反四畝一三歩
        石盛 三斗
 高合計 七六二石三斗五升
  (本高 八〇六石八斗八升)

(『千葉市誌』)


 右の史料中にみられる上・中・下の等級は、前にも記したとおり、太閤検地以来の地味を主体としたもので、上田・石盛(こくもり)一三とか上畑・石盛八というのは、上田は玄米に換算して反当たり一石三斗、上畑は同じく反当たり換算(玄米)八斗の生産高を保有しているということで、本高は正規の生産高で「高合計」というのはさまざまな差引分を取り除いた実収入としての生産高ともいえるものである。
 このように、検地を施行して、その土地の生産力の限界において、農民から年貢を徴収することは、幕藩体制を維持していく上での基調でもあったが、年貢の収納に関しては、力を発揮して強行徴収という態度は初期においては、厳重にいましめられていた。木村礎氏が『幕藩体制史序説』の中で述べているように、これは、徳川幕府が強大な安定した武力をバックボーンにして、「小農民自立」の政策を推進させようとしている面が見られ、たえとば、寛永十九年(一六四二)の覚の中に「去年、当年作毛悪くこれ有りて、百姓草臥(くたびれ)候と相聞え候。この上疲れざる様、入念に仕置き申し付くべきの事。」などとみられ、農民が不作のために疲弊してしまうことを、為政者の立場から警戒していることがわかる。
 また検地を断行したといっても、「検地仕様之覚」の中で「郷村を、請取リ其村ヘ入リ候ハバ、先ず郷境を見廻り高何百石之所ニ田畑屋敷ともに何拾町これあるべくと大積(おおつもり)をいたし、見分前之水帳と引合せ、よくよく考え、たとへば此村ハ前繩詰リ位之次第もちがい、百姓之居躰も草臥候と見及候ハバ、繩を少し緩(ゆる)く打ち申すべく候、繩大将之心持ニ依って左様なる郷村ハ自然前高より少も引込候ハバ不調法に成り候わんと存じ、弥(いよいよ)繩をつめてうたせ申族(やから)もこれあり、言語道断沙汰之限也。譬(たとい)前高より引込候わんとも、出候わんとも少茂無構(すこしもかまいなく)たた正路成る所肝要なり。」としており、農民の再生産構造を破壊せずに、その発展の上にたって年貢を徴収しようという傾向がみられる。
 検地も単に年貢の完全徴収という面からのみこれをみていくとはなはだ狭い見解となってしまうことが多い。検地に関して、よく引用される秀吉が浅野長政に与えた文書の中にある「一郷二郷も悉(ことごとく)なできり仕る可く候……。」という内容にしても、検地の対象となった土地の実態をどう把握して解釈するかということが重要である。また本多佐渡守正信が将軍秀忠へ提出した政治的教訓書である『本佐録』の中に「百姓は天下の根本なり、是を治むるに法有り、先一人/\の田地の境目を能立て、扨(さて)一年の入用作食をつもらせ、其余を年貢に収むべし、百姓は財の余らぬ様に、不足なき様に治むる事道なり……。」とか、寛政年間に高野常道の著した『昇平夜話』の中に「東照宮上意に郷村の百姓共に死なぬ様にと合点致し収納申付け様にとの上意は毎年御代官衆、支配所へ御報賜る節仰出されしと云へり……。」これらはすべて農民を年貢を徴収する対象としてしかみなかったという見解もあるが、他方では農民に対する苛酷な為政者の仕打というのは、最初から意図されたもので、検地がその出発点であるとする見解もあり、その解釈も多種多様である。しかし注意しなければならないのは、これらがともすると結果的な解釈に、ウェイトがおかれすぎていて、歴史事象の全体構造の上からの考察に充分な眼を向けていない点が問題であるといえよう。
 徳川幕府の治政下にあっては、農民統制も複雑化している。しかし、これとても、農民そのものの存在を、おしつぶさぬ限度というわくづけが存在したことを見落してはならない。
 千葉について、みるならば、このようなきびしい身分制度のわくづけの中にありながらも、農村的性格の村落の中から、地主化し富を蓄積したものが商業を営なみ、商人へと質的転化をおこしている。また同時にこのことが千葉の地域的特性そのものを規定し、千葉の体質をも変化させていくという現実は、検地――農民統制という固定化したパターンの中では、解釈できないことのように思われる。