第一項 郷土の村々の規模

11 ~ 15 / 492ページ
 江戸時代の村は、その生産規模を石高であらわすが、はじめに千葉市域(土気(とけ)地区を除く)の江戸時代の村々の規模をみることにしよう。四―一表は元祿十五年(一七〇二)・幕末(幕末の最終時点)における村高を表示したものである。
四―一表 千葉市域(土気地区を除く)の村高の推移
郡名村名元祿十五年の村高幕末の村高備考
石    勺 石    勺 
千葉郡千葉町一〇七五、七八三〇 一一九九、七九九〇 
今井村一九〇、六三七〇 二〇八、一四八〇 
寒川村四四九、四〇四〇 五三一、三四八〇 
登戸村一七、一二〇〇 五二、〇一二〇 
黒砂村二九、九六五〇 六四、三三四〇 
 
辺田村七一〇、〇〇〇〇 七一四、二五九〇 
矢作村三四〇、七九一〇 三四六、八〇六〇 
加曽利村九一六、五二五四 九三三、四八二四 
小倉村四四六、五六六〇 四八〇、一七八〇 
金親村二五六、三九八三二二五八、五三八三二
 
坂月村九九、七〇八〇 一〇二、三六三〇 
大草村二三二、八三一〇 二四三、九〇一〇 
坂尾村一〇一九、一五九〇 一〇七一、二七二〇 
長峯村二二三、五七三〇 二二五、三二九〇 
千葉寺村九七九、五四九〇 一〇一五、七六三〇 
 
仁戸名村一三〇、三四六〇 一四〇、六一七〇 
川戸村一七五、〇〇〇〇 一八三、二一二〇 
大井戸村三四二、五五〇九 三四六、一一〇九 
宮崎村三二四、三九四〇 三二六、〇三八〇 
北谷津村一〇五、七一八〇 一〇八、四七八〇 
 
下田村三四七、二六〇〇 三五四、三六四〇 
谷当村三二六、〇二八〇 三三〇、六一四〇 
多辺田村六四三、六六三〇 六四三、六六三〇 
平山村五三七、四六二〇 五五一、九四三〇 
遍田村一六六、一四八〇 一九〇、〇九四〇 
 
大金沢村二五〇、二三九〇 二八九、六〇三〇 
小金沢村一二一、一九一〇 一三四、一九五〇 
刈田子村一七〇、七六九〇 一七七、一二二〇 
谷津村四六六、二二一〇 五〇五、二三二〇 
駒崎村一五三、八二一〇 一五四、一四八〇 
 
落井村一六五、二一九〇 一七三、四二四〇 
茂呂村三三七、四三四〇 二四三、一四六〇 
中西村二二二、七四五〇 二二九、三七〇〇 
濱野村七三八、七五三〇 七五六、二三九七六
村田村三一六、九四二〇 三五一、八九四〇 
有吉村一九七、四六〇〇 二二〇、九五八六六
南生実村九七五、六二四〇 一〇二七、二四五〇 
 
千葉郡北生実村一二五六、五二二〇 一三四七、六〇七〇 
小花輪村一二七、六五〇〇 一二八、一八一〇 
富岡村二一〇、九一五〇 二一一、三七一〇 
稲毛村四五八、三五四九 五二七、一六一九 
検見川村六〇二、六八二一 六一五、四六八六 
 
畑村四〇六、九五九五 四〇六、一五〇三 
長作村五三五、五〇〇〇 六八九、三五九〇 
天戸村一八六、一七〇〇 二五六、七五〇〇 
犢橋村七〇六、二五四〇 七四一、七六三〇 
長沼新田四〇五、三五九〇 五九二、六九七〇 
 
柏井村一九五、七一二〇 一一八、五一一〇 
北柏井村一五三、八三〇〇 一九二、一〇四六六
花嶋村一二五、〇〇〇〇 一六〇、〇一四〇 
印旛郡宇那谷村三一九、〇〇〇〇 四一〇、五五一〇 
千葉郡西寺山村二三一、四一三〇 二三一、二一四〇 
 
東寺山村二四四、九三五〇 二六六、〇六三〇 
原村一五六、四〇六〇 一五七、八二一〇 
高品村三一七、九六三〇 三一八、六五四〇 
作草部村四一〇、四六六〇 四一三、七六七〇 
殿台村二二七、七七八〇 二二七、七七八〇 
 
萩台村一八六、一七四〇 一八六、一七四〇 
薗生村三九三、四五九〇 三九三、四五九〇 
宮之木村三六七、二八七〇 一〇八、〇〇一五 
小中台村四七一、八二五〇 四七一、八二五〇 
馬加村六七四、六三八〇 八六〇、六八四〇 
 
武石村二八六、六四五〇 二八六、六四五〇 
貝塚村四七〇、〇〇〇〇 四七一、〇五〇〇 
平川村一九七、一八〇〇 二四二、九五六六六
赤井村一五七、八三八〇 一八二、六四七八八
生実郷一〇〇、〇〇〇〇 一〇〇、〇〇〇〇 
 
大森村一五二、八二八〇 一五二、八二八〇 
曽我野村五九四、〇八八〇 五九四、〇八八二 
中野村六七六、九三〇〇 七一三、四一七六四
高田村二八三、八七〇〇 二八三、八七〇〇 
中田村五八三、四五〇〇 五八三、四五〇〇 
和泉村一七八、五三九〇 一七八、五三九〇 
佐和村六六、八二四〇 六六、八二四〇 
 
千葉郡上泉村三四三、四五〇〇 三四三、四五〇〇 
富田村三五一、三三四二 三五一、三三四二 
古泉村一七〇、五七〇〇 一七〇、五七〇〇 
高根村三〇一、七二二〇 三〇一、七二二〇 
五十土村五一、五二一〇 五一、五二一〇 
 
下泉村三四六、一三五〇 三四六、一三五〇 
川井村一三七、五一四〇 一三七、五一四〇 
野呂村三九一、一四二〇 三九一、一四二〇 
貝谷村
古市場村五四三、一〇三〇 五六〇、九五四〇 
 
泉水村二七一、八六〇〇 二七二、六四〇〇 
横戸村一〇四、〇〇〇〇 一一七、〇九一〇 
五田保村
星久喜村二六七、七五〇〇 三〇七、二四六〇 
旦谷村一五四、三九九〇 一五六、八八四〇 
 
野田村八八、六六二〇 
(野田新田村)
一五一、八三七六六
  1. 注 一、元祿十五年の村高は内閣文庫原蔵、元祿十五年十一月『下総国郷帳』による。
  2.   二、幕末の村高は木村礎編『旧高旧領取調帳関東編』による。
  3.   三、貝谷村は宝暦十一年の書上げに村高一五四石三斗九升九合とあるが、上記二つの出典には見当たらないので記載事項を空欄にした。
  4.   四、五田保村も元祿の郷帳にはみえないので、空欄のままとした。

 まず元祿十五年の村高の動向をみると、最大の村高を有する村は北生実村の一、二五六石五斗二升二合、ついで千葉町の一、〇七五石七斗八升三合、坂尾村の一、〇一九石一斗五升九合である。いわゆる千石を超えている村はこの三つの村だけである。これに対して最小の村高の村は登戸村の一七石一斗二升である。元祿十五年における千葉市域の村高を規模の上から大別すると四―二表のごとくなる。すなわちもっとも多いのは百石台の村であることがわかる。ついで三百石台の村である。このようにみると明らかなごとく、江戸時代の村の規模は決して一様ではなく、厳密にみるとかなりの規模に振幅がみられる点が特徴であろう。

加曽利村周辺の村絵図(寛文2年)

 ところで、各村の村高について、元祿年代と幕末の最終時点の計数とを対比してみると、全般的には若干の増加を示している。たとえば千葉町は一、〇七五石七斗余から一、一九九石七斗余へと、また千葉寺村は九七九石五斗余から一、〇一五石七斗余へ、作草部村は四一〇石四斗六升余から四一三石七斗六升余へと漸増している。また中野村は六七六石九斗三升から七一三石四斗一升余へと増加している。この増加率は村々によってかなり差異がみられ、必ずしも一様の増加率を示しているわけではない。やはり村によって振幅の差がみられる。このような増加率が区々である理由は、もとより当該村々において新しく開発された土地が、本高にくみこまれた状況の差異によるものである。すなわち、未開発地の存在状況とその開発化・本高への組み入れ高の差異にもとづくことはいうまでもない。それとともに消極的な面では、いったん検地によって確定した村高に対して、その後の検地によってあらたに組みこまれた結果、増加する場合等も当然みられるが、このことを別問題とすれば、大局的にはすでに指摘した開発耕地の本高組み入れが村高増加の原則的なすがたであろう。特に幕府による新田開発策が積極的に推進されるようになると、その成果が漸次に本高に組み込まれるようになった。その詳細な分析は今後の研究にまたねばならないだろう。
 ところで、四―一表によってみると、多辺田村は六四三石六斗余から幕末にいたっても現状維持で変化がみられない。これは西寺山村の場合二三一石四斗余の場合もそうである。また殿台(とのだい)村の二二七石七斗余の場合も萩台(はぎだい)村一八六石一斗余の場合、さらに薗生(そのう)村三九三石四斗余の場合、小中台村・武石(たけし)村・生実(おゆみ)郷・大森村・高田村・中田村・和泉(いずみ)村・佐和村・上泉(かみいずみ)村・富田村・古泉村・高根村・五十土(いかづち)村・下泉村・川井村・野呂村の場合も現状維持である。その具体的な理由は直ちに明確にはできないが、一つの理由として新田開発の可能地の存在の有無と深いかかわりがあるのではなかろうかと考えられる。
 さらに四―一表で注目すべきことは、畑村の場合、元祿年代四〇六石九斗五升余でありながら、幕末の最終時点では四〇六石一斗五升余と減少している。同様に柏井村の場合も一九五石七斗余から一一八石五斗余、西寺山村の二三一石四斗余から二三一石二斗余、宮之木村の三六七石二斗余から一〇八石余へと減少している。特に宮之木村の場合は二〇〇石余減少したことになる。これらの動向は記載のミスかどうか、あらためて確認してみる必要があろう。
 ともあれ、村々の厳密な意味での村高の増加率は今後こまかに研究してみる必要があることを指摘しておきたい。
 こうして幕藩体制の下部組織としての村々は当該領主によって支配されるもっとも重要な行政単位であった。殊に領主は村単位に年貢納入を請負わせてきびしく責任を履行させた。いうまでもなく幕府によるそのような村落支配のありかたは、きわめて巧妙な政策のあらわれといってもよかろう。
4―2表 千葉市域(土気地区を除く)の村高の規模
規模村数
99石9斗以下6
100石台26
200石台13
300石台16
400石台9
500石台5
600石台4
700石台3
800石台
900石台3
1000石台3
88

 次に村の戸数・人口の一斑(いっぱん)についてのべよう。四―三表は寛政五年からとびとびではあるが、明治元年にいたる薗生村の戸数・人口の動態である。これによれば薗生村の戸数は寛政(寛政年間一七八九~一八〇〇)~明治元年をふくめて五〇戸台である。すなわち寛政・享和(一八〇一~三)年代五〇戸、文化(一八〇四~一七)~天保十三年(一八四二)にいたると一戸増の五一戸、しかし天保十四年にいたると一戸減の五〇戸となり、安政五年(一八五八)にいたると二戸増の五二戸となり、万延元年(一八六〇)にいたると一戸減じて五一戸となっている。大局的にみれば変化の振幅は少いことがわかる。これに対して人口には大きな変動がみられる。すなわち寛政~文化九年(一八一二)は二百人台であるが、天保九年(一八三八)にいたると三百人台となり振幅が大きいことがわかる。つまり文化九年二七八人であった村の総人口が十六年後の天保九年にいたると文化九年に対して六一人増加して三三九人となっている。この動態は、文化九年~天保九年(一八三八)の中間の年次の動態がつかめないと速断はできないが、二百人台から三百人台への上昇に若干不自然なニュアンスを感じないわけではない。ともあれ、一方では戸数はほぼ固定した条件のなかで、人口の方には大幅な振幅がみられる背景の分析が必要である。ちなみに薗生村の一戸当たりの人員をみると、文化四年(一八〇七)の場合五・二人であり、安政五年(一八五八)の場合は六・八人である。
4―3表 薗生村の戸数・人口
年次戸数人口男女別備考
寛政5(1793)50247128119明細帳による
享和3(1803)50274143131五人組帳による
文化4(1807)51270131139宗門帳による
文化9(1812)51278145133  〃
天保9(1838)51339160179  〃
天保11(1840)51341163178  〃
天保13(1842)51334166168  〃
天保14(1843)50五人組帳による
嘉永7(1854)50  〃
安政5(1858)52354176178宗門帳による
万延元(1860)51
文久2(1862)52361184177宗門帳による
明治元(1868)51364173191
  1. 注  1 和田茂右衛門氏の調査資料による。
  2.    2 薗生村は村高393石4斗余(宝暦の書上げによる)で、本表当該年次は旗本山名氏の一給村であった。

 次に佐倉領の中野村の場合をみてみよう。中野村は宝暦の「書上げ」によれば村高六七六石九斗三升で四―四表は中野村相給(宝暦十一年の「書上げ」では九給の村である)のうち、戸田領のみの戸数・人口である。したがってこの数字が中野村全域の戸数・人口をあらわしてはいないことに特に注意を要する。四―四表によると、前述の薗生村の場合と同じく、戸数においては大きな変動はみられないといって大過なかろう。もっとも、文政十二年(一八二九)一四戸から天保三年一五戸と一戸増加し、本表にもとづく限りにおいて文久年代にいたるとさらに一戸増加しているが、大局的には前述の薗生村の戸数のパターンにかなりよく似ているといってよかろう。それはいうまでもなく一方の人口数の変動がこれまた薗生村の場合によく類似している面がみられることである。すなわち、戸数には大きな変動がないにもかかわらず、人口の方は文政十二年(一八二九)と安政六年(一八五九)を対比すると、文政に比して後者は二二人増加していることがわかる。これまた薗生村の場合と同じく、その背景の分析が必要であろう。

中野村の宗門帳(文政~文久年間)<鈴木至氏蔵>

4―4表 中野村の戸数・人口(ただし戸田領)
年次戸数人口男女別備考
文政12(1829)14633231宗門帳による
天保3(1832)15542331
安政2(1855)764432
安政6(1859)15854639
文久3(1863)16

注・和田茂右衛門氏の調査資料による。


 このようなパターンに対して次の星久喜村の場合は戸数に若干の変動がみとれるケースである(四―五表参照)。星久喜村は佐倉領一給の村である。すなわち延享三年五三戸であったものが、安永三年には五〇戸となり天保年代にいたると四六戸に減少している。人口の方は不明である。
4―5表 星久喜村の戸数・人口
年次戸数人口男女別備考
延享3(1746)53明細帳による
安永3(1774)50五人組証文による
天保11(1840)46250131119宗門帳による
天保13(1842)46五人組証文による

注・和田茂右衛門氏の調査資料による。


 また次に掲げる東寺山村(四―六表参照)は旗本中山氏の一給村であるが万延元年(一八六〇)一六一人から明治元年(一八六八)にいたり三人増の一六四人、また佐倉領一給の川戸村(四―七表参照)は宝暦十二年(一七六二)戸数一七戸、人口九二人から一〇九年後の明治四年にいたると戸数二一戸、人口一三〇人と戸数において四戸、人口において三八人の増加の状況を示している。
4―6表 東寺山村の戸数・人口
年次戸数人口男女別備考
万延元(1860)1617982宗門帳による
明治元(1868)1647589

注・和田茂右衛門氏の調査資料による。


4―7表 川戸村の戸数・人口
年次戸数人口男女別備考
宝暦12(1762)17924844宗門帳による
明治4(1871)211306961

注・和田茂右衛門氏の調査資料による。


 以上は和田茂右衛門氏の克明な調査にもとづくデータによったものであるが、なにぶんにも初期から系統的な人口資料はきわめて少ない。和田氏はさらに丹念な努力をされているので、近い将来全市域の人口の動態はさらに明確になると思われるが、当面、基礎資料の皆無の村々もあり、多くの困難も予想される。
 かつて人口史の関山直太郎氏は『近世日本人口の研究』をおおやけにし、近世における日本全域の人口の動向を問題とされた。その際、氏は地方別(たとえば関東地方とか中部地方というように)に人口資料にもとづき指数計算をされておられるが、旧国別の人口数の指数は出されていない。そこで筆者が下総国の人口の推移を指数計算すると次のとおりである(四―八表参照)。
4―8表 下総国の人口
年次下総国人口
    人
指数
寛延3(1750)567,603(100.00とする)
宝暦6(1756)565,61499.65
天明6(1786)483,52685.19
文化9(1804)478,72184.34
文政11(1828)497,75887.67
天保5(1834)402,09370.84
弘化3(1846)525,04192.50

 すなわち、寛延三年における下総全域の人口は五六万七千余人であるが、次第に人口が減少し天保五年にいたると総数四〇万二千人余と減少し寛延三年を百とすると天保五年は七〇・八四と大きく低下している。そのような人口の停滞現象も、弘化三年にいたると急激に上昇化を示すようになる。千葉市域の人口の動態も今後の研究にかかっているが、右のような下総国全域の人口動態とも関連づけながら、みんなで、人口の動態を明らかにしていきたいものである。