第二項 支配の実態

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 房総三国は江戸のお膝もとであったから、幕府の政策がすぐさま反映される場所であったし、幕府は特に支配には大いに心を配った。そのあらわれはさまざまであるが、たとえば、配置された大名はすべて譜代であり、かつ、犬牙錯綜とよばれるように支配はもっとも複雑な地方であったといえる。
 千葉市域ももちろんその例にもれない。四―九表は宝暦十一年(一七六一)の書上げ(ただし支配の記載は貞享~元祿の動向をしるしたものと考えられる。)支配の動向をまとめたものである。これによると明らかなように一村一給(いっそんいっきゅう)の村のみではなく、一村を何人もの領主で支配していた。このように複数の支配者によって村が支配されることを相給(あいきゅう)とよんでいる。たとえば中野村は九人の旗本によって支配されている。これを九給支配とよぶ。さらに赤井村・西寺山村・検見川村・稲毛村・畑村などのごとく各村々が三人の領主によって支配されている。これを三給支配とよぶ。しかし、全般的にみると他の上総・下総地域からみると比較的支配が単純であるともいえる。他の下総・上総地域では数人の領主による支配はむしろ普通であるともいってよい。それは本地域が佐倉藩領の重要な一環であったこと、それと森川藩領の存在などによるものであり、思ったより支配のしくみがすっきりしているといって差支えない。このことは土気地区の支配の状況と対比してみると、一層はっきりするであろう。それにしても房総地方の特色である大名領・旗本領・代官領などの交錯した支配の特質はつらぬかれているといえよう。
四―九表 宝暦十一年(一七六一)における村々の概況<ただし旧土気地区は寛政五年(一七九三)の概況>
郡名村名村高戸数支配の状況
分給の数支配者支配者の区別
千葉郡千葉町石斗升合勺才
一〇七五、七八三〇 
戸田能登守領分、来迎寺・妙見寺・大日堂領大名領一・寺領三
今井村一九〇、六三七〇 戸田能登守領分大名領一
寒川村四四九、四〇四〇   〃大名領一
登戸村一七、一二〇〇   〃大名領一
黒砂村二九、九六五〇   〃大名領一
辺田村七一〇、〇〇〇〇   〃大名領一
矢作村三四〇、七九一〇   〃大名領一
加曽利村九一六、五二五四   〃大名領一
小倉村四四六、五六六〇   〃大名領一
金親村二五六、三九八三二  〃大名領一
坂月村九〇九、七〇八〇   〃大名領一
大草村二三二、八三一〇   〃大名領一
坂尾村一〇一九、一五九〇   〃大名領一
長峯村二二三、五七三〇   〃大名領一
千葉寺村九七九、五四九〇 戸田能登守領分、千葉寺領大名領一・寺領一
仁戸名村二六七、七五〇〇 戸田能登守領分大名領一
川戸村一七五、〇〇〇〇   〃大名領一
大井戸村三四二、五五九〇   〃大名領一
宮崎村三二四、三九四〇   〃大名領一
北谷津村一〇五、七一八〇 
下田村三四七、二六〇〇 戸田能登守領分大名領一
谷当村一五四、三九九〇   〃大名領一
多辺田村六四三、六六三〇 
平山村五三七、四六二 森川紀伊守領分大名領一
遍田村一六六、一四八〇   〃大名領一
大金沢村二五〇、二三八〇   〃大名領一
小金沢村一二一、一九一〇   〃大名領一
刈田子村一七〇、七六九〇   〃大名領一
谷津村六六六、二二一〇   〃大名領一
千葉郡駒崎村一五三、八二一〇   〃大名領一
落井村一六五、二一九〇   〃大名領一
茂呂村三三七、四三四〇   〃大名領一
中西村二二二、七四二〇 森川紀伊守領分・西山忠左衛門知行大名領一・旗本領一
濱野村七三八、七五三〇 森川紀伊守領分・本行寺領大名領一・寺領一
村田村三一六、九四二〇 森川紀伊守領分大名領一
有吉村一九七、四六〇〇   〃大名領一
南生実村九七五、六二一〇   〃大名領一
北生実村一二五六、五二二〇   〃大名領一
小花輪村一二七、六五〇〇   〃大名領一
富岡村二一〇、九一五〇   〃大名領一
稲毛村四五八、三五四九 代官所、旗本石河与右衛門・朝倉三十郎知行代官所一・旗本領二
検見川村六二〇、六八二一 代官所、旗本金田忠八郎・清野半左衛門知行代官所一・旗本領二
畑村四〇六、九五九五 代官所、旗本金田想次郎・遠山忠左衛門知行代官所一・旗本領二
長作村五三五、五〇〇〇 旗本朝倉清左衛門・服部七郎左衛門知行旗本領二
天戸村一八六、一七〇〇 旗本小栗力之助知行旗本領一
犢橋村七〇六、二五四〇 代官所、旗本小栗又兵衛・保田越前守知行代官所一・旗本領二
長沼新田四〇五、三五九〇 代官所代官所一
柏井村九五、七一二〇 旗本上杉采女知行旗本領一
北柏井村一五三、八三〇〇 旗本小栗力之助知行旗本領一
花嶋村一二五、〇〇〇〇 旗本遠山八兵衛知行旗本領一
印旛郡宇那谷村三一九、〇〇〇〇 旗本石河三右衛門知行旗本領一
千葉郡西寺山村二三一、四一三〇 代官所一、旗本山名図書・中山勘解由知行代官所一・旗本領二
東寺山村二四四、九三五〇 旗本中山勘解由知行旗本領一
原村一五六、四〇六〇 代官所、旗本一色源次郎知行代官所一・旗本領一
高品村二一六、九六三〇 代官所、中山勘解由知行代官所一・旗本領一
作草部村四一〇、四六六〇 旗本中山勘解由知行旗本領一
殿台村二二七、七七八〇 旗本石尾織部知行旗本領一
萩台村一八六、一七三〇 旗本中山勘解由知行旗本領一
薗生村三九三、四五九〇 旗本山名図書知行旗本領一
宮之木村三六七、二八七〇 旗本中山勘解由・赤松弥十郎知行旗本領二
小中台村四七一、八二五〇 旗本山名図書知行旗本領一
馬加村六七四、六三八〇 松平伊豆守与力給知、旗本保田越前守知行旗本領一・与力給一
千葉郡武石村二八六、六四五〇 旗本保田越前守知行旗本領一
貝塚村四七〇、〇〇〇〇 旗本保田越前守知行旗本領一
平川村一九七、一八〇〇 代官所、旗本林甚助・神谷内蔵之助・戸塚万太郎知行、戸田能登守領分知行代官所一・旗本領三・大名領一
赤井村一五七、八三二〇 旗本鈴木久太夫・佐々善兵衛・遠山忠兵衛知行旗本領三
生実郷一〇〇、〇〇〇〇 大宿寺領寺領一
大森村一五二、八二八〇 旗本遠山忠太郎・辻織部知行旗本領二
曽我野村五九四、八〇八〇 代官所、旗本土岐左兵衛・矢部次郎兵衛・山崎伊兵衛・河野権十郎知行、春日大明神社領代官所一・旗本領四・社領一
中野村六七六、九三〇〇 旗本土屋長三郎・山本七左衛門・山高九郎七・相馬小次郎・松波六左衛門・小出弥三郎・岡野平左衛門・猪子左大夫・戸田兵庫知行旗本領九
高田村二八三、八七〇〇 旗本戸田土佐守知行旗本領一
中田村五八三、四五〇〇 旗本戸田土佐守知行旗本領一
和泉村一七八、五三九〇 旗本戸田土佐守知行旗本領一
野呂村三九一、一四二〇 旗本戸田土佐守知行旗本領一
佐和村六六、八二四〇 旗本戸田土佐守知行旗本領一
上泉村三四三、四五〇〇 旗本戸田土佐守知行旗本領一
富田村三五一、三三四二 旗本戸田土佐守知行旗本領一
古泉村一七〇、五七〇〇 旗本戸田土佐守知行旗本領一
高根村三〇一、七二二〇 旗本戸田土佐守知行旗本領一
五十土村五一、五二一〇 旗本戸田土佐守知行旗本領一
下泉村三四六、一三五〇 旗本戸田土佐守知行旗本領一
川井村一三七、五一四〇 旗本戸田土佐守知行旗本領一
野呂村三九一、一四二〇 旗本戸田土佐守知行旗本領一
貝谷村一五四、三九九〇 戸田能登守領分大名領一
古市場村五四三、一〇三〇 森川紀伊守領分大名領一
泉水村二七一、八六〇〇 戸田能登守領分大名領一
横戸村一〇四、〇〇〇〇 旗本石尾織部知行旗本領一
五田保村
星久喜村
旦谷村
野田村
山辺郡土気町六三四、一五五〇 一四八旗本松下嘉兵衛知行旗本領一
越知村一五四、一一四〇 四八旗本三嶋但馬守知行旗本領一
大木戸村一九五、八〇七〇 四四旗本水野筑前守・小幡平八郎知行旗本領二
小山村五五、六〇〇〇 一二旗本建部十郎右衛門知行旗本領一
高津戸村一三八、七九七〇 二七代官所、旗本岩下角弥知行代官所・旗本領一
小倉土村四三二、四三二六 三八旗本石丸孫之丞・神谷銀一郎・川口茂右衛門知行旗本領三
大和田村六七七、〇〇〇〇 七九旗本久保喜三郎・久保伝左衛門知行旗本領二
大椎村四〇一、五三四〇 四〇代官所、旗本曲淵叔五郎・神谷銀一郎知行代官所一・旗本領二
  1. (注)〇旧山武郡土気町分は寛政五年(一七九三)「上総国村高帳」(仮称、『房総叢書』第九巻所収)によった。
  2.    〇上記以外の分は宝暦十一年(一七六一)「下総国各村級分」(仮称、『房総叢書』第九巻所収)によったが、不備な部分については、和田茂右衛門氏の調査によってこれを補った。


給々支配(相給)の村の願書連名の部分(文政11年,複写による)
上のように,一村が数人の領主によって支配されていた村も比較的多い。

 四―九表中、「戸田能登守領分」とあるのはすべて佐倉藩領である。佐倉藩は四―一〇表にみられるとおり、天正十八年家康の関東移封にさいして、三浦義次が一万石をあてがわれて入部したのにはじまる。その後徳川一門である武田信吉(四万石)、松平忠輝(五万石)と交代し、慶長八年一時幕府の直轄領となり、青山・内藤両氏が代官として当地を支配した。佐倉藩が譜代大名領となるのは慶長十二年小笠原吉次の入部後である。こうして佐倉藩は、譜代大名の城地に固定して幕末にいたった。譜代大名の城地といっても、川越・忍(おし)・岩槻(いわつき)などとともに、とくに老中の城地とされた点が注目されよう。
4―10表 佐倉藩における大名配置の変遷
番号大名名在封期間石高
1三浦義次天正18~10,000石
2武田(松平)信吉文祿元~慶長 740,000
3松平(越後)忠輝慶長 7~慶長 850,000
幕領〃  8~〃 12
4小笠原吉次〃 12~〃 1428,000
5土井利勝慶長15~寛永1032,400~142,000
6石川忠総寛永10~寛永1170,000
7松平(形原)家信一康信〃 12~〃 1740,000~36,000
幕領〃 17~〃 19
8堀田正盛―正信寛永19~万治 3110,000
幕領万治 3~寛文元
9松平(大給)乗久寛文元~延宝 660,000
10大久保忠朝延宝 6~貞享 383,000~93,000
11戸田忠昌―忠真貞享 3~元祿1461,000~67,800
12稲葉正往―正知元祿14~享保 8102,000
13松平(大給)乗邑―乗佑享保 8~延享 360,000
14堀田正亮―正倫延享 3~幕末100,000~110,000

(藤野保氏による)


 右に掲げた支配の状況に示される佐倉藩主たる戸田氏は佐倉藩初代からかぞえて(幕領のときを除く。)十一代目の佐倉藩主にあたる。したがって右の支配の動向は戸田忠昌――忠真<能登守>にいたる(貞享三~元祿十四)忠真時代の動向を示すものであろう。
 一方、四―九表によれば、旗本の戸田土佐守知行の村々が一村一給で比較的多い。たとえば高田・野呂・五十土(いかづち)・川井村など十数カ村に及んでいる。旗本の戸田土佐守とは前述の佐倉藩主戸田氏とは姻戚関係にあたる。すなわち、旗本戸田氏の祖忠章(大学、土佐守)で、実は戸田忠昌(佐倉藩主)の五男である。忠章は元祿十二年閏九月二十三日、父忠昌の遺領河内国志紀・丹北、下総国千葉・印旛あわせて四郡のうちで三千二百石及び新墾の田三千八百石を分与された。いわゆる大名分知の旗本である。忠章は元祿十五年書院番頭、同十六年十一月十三日大番頭、のち一時寄合となり正徳五年(一七一五)大番の頭に復帰している。右にみえる「戸田土佐守知行」とあるのは、大名分知の旗本戸田氏の知行村を示している。その他、四―九表によれば旗本山名図書知行の薗生村・小中台村、同じく旗本中山勘解由知行の作草部村・東寺山村・西寺山村(相給)・高品村(相給)・宮之木村(相給)・萩台村などが、旗本領としてはまとまって分布している例である。
 ところで前述のごとく、千葉市域の支配関係は比較的すっきりしていると述べたが、四―一一表は宝永年間における旗本領の全国分布である。これによると、関東では、下総は領数において武蔵・上総についで第三位にある。このように下総地域は全般的には支配の複雑した地であったが、その割には千葉市域は支配が比較的すっきりしていることが知られよう。
4―11表 旗本領の国別全国分布(宝永2年<1705>)
地方名国名国別所領数
関東武蔵7973,009領
(79.60%)
上総475
下総420
常陸346
上野322
下野321
相模287
安房41
中部美濃75319
(8.44%)
伊豆65
三河64
遠江45
駿河42
信濃15
甲斐1
越後7
越前3
越中3
越登1
奥羽陸奥814
(0.38%)
出羽6
近畿近江137401領
(10.61%)
摂津65
大和53
丹波47
山城45
河内32
但馬9
播磨7
和泉3
伊勢3
中国備中2021
(0.60%)
石見1
四国伊予11
(0.03%)
九州豊後613
(0.34%)
日向3
肥前2
豊前1
筑後1
総計39国 3,778領 (100%)

注 鈴木寿『徳川幕臣団の知行形態』(史学雑誌71の2)による。ただし百分率計算の数値は川村優氏の計算による。