薗生村明細帳(千葉郡薗生村,寛政5年)<吉田公平氏蔵>
天保十四年(一八四三)六月、『犢橋(こてはし)村差出明細帳』(『千葉県史料近世篇下総国下』一号史料)によれば、同村の高は七三四石一斗六升九合で四人の領主による分割支配であった。すなわち、七三四石余のうち
高四拾三石七斗八升六合 篠田藤四郎御代官所
高三拾弐石五斗四合 鳥井甲斐守様組与力衆御給知
高百九拾石九斗三升七合 小栗左近様御知行所
高四百六拾六石九斗四升弐合 吉田収庵知行所
とあるとおり、代官一、与力給知一、旗本領二の支配から成っていた。いま右の吉田収庵知行分四六六石九斗四升二合のうち、引高等を除いた四一二石余(ただし屋敷分をふくむ。)の田畑の等級別反別をみると、四―一二表のとおりである。すなわち、田方反別三六町六反余、畑方反別(屋敷分をふくむ。)一五町三反余で、畑方反別に比し田方面積は全体の七〇パーセントを超えている。特に田方・畑方ともに下田・下畑の分布がたかく、ちなみに田方のうちでは下田のパーセンテージか六四パーセントを超えている。一方畑方反別一五町三反余(屋敷分をふくむ。)のうちでも、下畑が七〇パーセントを超えており、田畑とも同村の農業生産力はおしなべて低いことがわかる。その証拠としては、田方のうち上田の占める割合は一二パーセント台、畑方のうち上畑の占める割合は一四パーセント台という低さからも知られよう。そのことは石盛(こくもり)(反当たり標準生産量)の数字にも端的に示されている。すなわち、上田の石盛も一三すなわち反当たり生産量は一三斗(一石三斗)である。
等級別 | 高 | 反別 | 石盛 | 反別割合 |
石 | 町 | % | ||
上田 | 59.02858 | 4.5402 | 13 | 12.3 |
中田 | 93.4010 | 8.4903 | 11 | 23.2 |
下田 | 212.8725 | 23.6507 | 64.5 | |
田方計 | 335.30208 | 36.6812 | 100 | |
上畑 | 17.63200 | 2.2012 | 8 | 14.4 |
中畑 | 8.5560 | 1.4218 | 6 | 9.2 |
下畑 | 44.1440 | 11.0318 | 4 | 71.9 |
屋敷高 | 6.9830 | 6925 | 10 | 4.5 |
畑方計 | 77.3150 | 15.3613 | 100 | |
田方・畑方計 | 412.61708 | 52.0425 |
田方・畑方反別(屋敷分をふくむ)の割合 70.4%(田方)対29.6%(畑方)
右の「明細帳」によると、犢橋村は溜井用水は無く、天水場といわれる村落で、時々旱損をこうむることもまれではなかった。同村の農業生産の状況は右の記載によって知られるとおり、いわゆる田の多い村落であり、もちろん米作が中心であるが、畑作には特徴がある。「畑作之義は麦、小麦、菜種又は粟、稗、さつま芋作、江戸表積出し売捌申し候」とあるごとく、畑作物は比較的バラエティに富んでおり、かつ消費都市たる江戸へ積出していることが注目される。特に「さつまいも」を栽培していることは目をひく。ともかくこの「明細帳」は天保年間のものであり、一九世紀のなかごろの犢橋村の様子を伝えているものではあるが、割合に畑作物の商品化は進行している実情が判明する。しかも、畑の肥料は「江戸表により、掃溜積取買受専ニ遣申候」とあるように、江戸の「掃溜」を搬送して使用していることが大きな特徴である。
前述のごとく同村の農業生産力は耕地の面積の比率からいえば、田方に圧倒的なウエイトがあるが、生産力は低調といわねばならない。本「明細帳」にも「一、稲草之義は、悪地故、晩稲勝ニて御座候」とある。したがって単に米作中心に依存することはできず、農民が生活を維持するためには畑方の商品作物の栽培に大きな突破口を求めていたように類推される。しかも大消費都市たる江戸の周縁に村が位置するという条件のよさもあったことを見逃すわけにはいかない。
もっとも、右のような畑作における換金作物栽培が千葉周辺においていつごろから普及するようになったかは、今後厳密な調査をおこなってみる必要があろう。
ところで、犢橋村の農間余業の実態を右の「明細帳」によってみると「一、農業之間、男ハ真木(まき)松葉等伐出し、検見川村迄之付出し売払申候道法(みちのり)壱里余、女ハ塩俵編出し行徳迄附送り売払申候」とある。つまり男は農間に真木・松葉の伐り出しを行い、検見川村まで附出している。これはもちろん、村内に林が存在するという前提に立っている。参考までに記せば同村には林が「一、林壱町六反歩、但弐ケ所」とあるから、この林の松葉などの伐り出しであったろう。一方女は農間作業として塩俵を編んでいるのが注目される。これはもちろん行徳塩の積出しにつかう塩俵で、女の副業的な仕事にとして現金収入のため営まれていたものであろう。
以上は犢橋村の旗本吉田氏知行所分の書上げによる同村の天保年代における動向であるが、農業生産の動向としてこれをもって旧千葉市域全域を代表させるわけにはいかない。そこには大なり小なり共通的な性格もみられたであろうが、村方によって個別差もみられたことは否定できない。それは沿海村であるか、それとも台地上の村落であるかといった位置的条件によっても、その動向に差異がみられたであろう。
ちなみに享保十八年(一七三三)の『平川村明細帳』によれば、用水は無く天水場であるとのべている。延享三年の『寒川村明細帳』によると同村の高は四四九石余で、田方はあわせて四二町九反余で、このうち上田七町八反余、中田八町七反余、下田一五町八反余、下々田一〇町四反余で、下田の占める割合が一番大きい。畑方も下々畑がもっとも多い(第四項「村明細帳に現れた生活の諸相」参照)。
平川村明細帳の一節(享保18年、複写による)
このようにみると全般的には農業生産力は決して高いとはいえない。犢橋村の例のごとく、江戸と直結した換金作物の栽培などは千葉地方としては比較的顕著な特色といえるかも知れない。
ともあれ、これらの問題は更に細かな究明をした上でなければ決定的なとらえかたは無理であり、今後このような問題意識にもとづいて研究調査をしていく必要がある。
いうまでもなく幕藩体制の仕組みから出てくる領主の農民統制――農業生産への基本的な姿勢は、米作中心であり、領主は農民から年貢を取り立てて生計を維持するものであったから、米作が農業生産の中心であったことは当然である。しかし、いわゆる原則的な自然経済の枠組みがゆるんでくるようになると、村々の生産生活にも変化が生じてくる。前述の犢橋村のケースのような商品作物の栽培の動向もそのあらわれであろう。しかし、大勢からみればなんといっても村々の生産は、米作中心の農業生産がその根幹をなしていたことは否定できない。