第二項 年貢の納入

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 年貢を納めることは、村にとってもっとも大切な義務であった。平年作ないしは農作であればいざ知らず、凶作にでもなると年貢の納入にあたって村役人はもとより、百姓一人一人にいたるまで、なみなみならない苦労がともないがちであった。凶作の場合(風害・水害・旱害など)の場合には、村方から年貢の減免を嘆願してみとめられることもあったが、逆に百姓の嘆願は不謹慎の行為として村方農民の代表者(名主がその代表者として行動する場合も多い。)が処罰をうける事態を招いたことも決して稀ではなかったのである。
 領主が村から年貢を確実に収納するためには、年貢の賦課の基礎台帳を的確に整備する必要があった。検地はまさしく年貢の賦課対象となる耕地の精細な確認にほかならなかったのである。

年貢米とりたての図(安藤博編『徳川幕府県治要略』による)

 一般的に領主が村方に年貢を賦課する場合、その耕地の生産力にもとづく租率が設定されるのであるが、幕府領にあっては徳川時代の初期、平均して六公四民といわれた。六公四民とは百石の村では六〇石が年貢になる割合であった。同様に四百石の村では右の比率によれば年貢に徴収されるのは二四〇石であり、残りの一六〇石は百姓の食い扶持(ぶち)として残される分ということになる。もっとも右の年貢率はかなり一般的なものであり、個々の領主による差異もあることは見逃せない。
 要するに領主は村に年貢納入の責任を負わせ、村単位に年貢を賦課し、これに対して村方はかなりの不自由をもしのんで、その要求に応じなければならなかった。
 さて、領主から村方に年貢が賦課されると、その比率にもとづいて個個の農民に年貢量を割当て、これをまとめて完納するのは村役人の責任であった。
 年貢が村方に賦課される場合、まず支配の領主から村方に対して年貢の割付状が与えられる。割付は別に免状、あるいは御成箇割付などとも呼ぶ。次にその実例をあげてみよう。右の例は延宝七年(一六七九)十二月星久喜村免状である。
        星久喜村当未之年[    ]
 一、高百四拾七石七斗五升者[   ]       田畑共ニ
    此取                    四ツ弐分五厘取
 一、新田新畑合三町六反八畝拾四歩
                      当己未之年ゟ上納也
    右之内
  田方取米壱石壱斗壱升壱合五勺
                      但壱反ニ付三斗九升取
  畑方取米六石九斗九升八合五勺壱才
                    但壱反ニ付弐斗五合五勺取
  (弐口カ)
  [  ]合八石壱斗壱升壱才
    俵ニ〆弐拾俵壱斗壱升壱才也
                但四斗入
 右免定之表、大小之百姓立合い高下無き様に割合致し、年内中に急度(きつと)皆済致す可く者也、
  延宝七年
   未之
     十二月廿一日
                        野嶋弥惣兵衛印
                        須藤平[   ]印
                        下村二郎兵衛印
                        (村宛の記載、略)

星久喜村年貢割付状(延宝7年)<吉田公平氏蔵>

 右によれば星久喜村の村高は一四七石七斗五升で、このほかに新田新畑分がこの年(延宝七年)から年貢賦課の対象となった事情が明らかである。
 すなわち、星久喜村の本年貢は高一四七石七斗五升に対しては年貢率「四ツ弐分五厘取」つまり四二・五パーセント取であることが判明する。いうまでもなく年貢率は四割強であったことが知られる。では一四七石七斗五升の四二・五パーセントとはいくらかというに、六二石七斗九升三合七勺五才になる。これを四斗入の俵数に直すと一五六俵三斗九升三合七勺五才になる。これに新田新畑分の年貢四斗入の俵にして二〇俵一斗一升一才を加算すると年貢総額は一七七俵一斗三合七勺六才ということになる。したがって年貢率は新田新畑分を加算すると四二・五パーセントを上廻る結果となる。
 右の免状は大小の百姓が立合い、不公平の無いよう相談して個々の百姓に割付けるよう指示し、この年貢高を年内中に必ず納入せよと命じている。つまり十二月二十一日に本割付を発して、大晦日までに納入せよというのであるから、例年のことながらずいぶん性急な要求である。野嶋弥惣兵衛以下は領主側の役人である。
 このような領主側の年貢納入要求に対して、村方では即刻納入することができたのであろうか。本免状がいわゆる徴税令書にあたるものであり、納入が済むと領主役所から皆済目録が発行され村方に送付される。右の場合、残念ながら皆済目録を発見することはできないが、前後の傍証史料などの事情から考えて、おそらく、何とか工面をつけて納入を完了したように考えられる。
 さて、星久喜村の年貢割付は右のごとく延宝年間のものが目下確認できるものでは最古である。おそらく、他村の場合でも延宝年代まで年貢割付を求めることはかなり至難の状況であるといえよう。
 ところで、星久喜村に関しては元祿二年(一六八九)の年貢割付状も残っている。次に延宝年代の年貢率と比較する意味からも同村の元祿二年の年貢割付状をみることにしよう。ただ、ここで注意しなければならないのは元祿二年の星久喜村の村高は「高百弐拾石  星久喜之内」とことわりがきがついており、延宝年代の村高一四七石七斗五升より減少した高となっている。その理由はおそらく延宝以降元碌にいたる時点において星久喜村は分郷となり、村高の一部が支配の関係で一二〇石と残りの端数分が分給となったためであろうと思われる。この点を注意して前述の延宝年代の免状と対比してみる必要がある。
 
     巳之年免状
 一 高百弐拾石            星久喜之内
    此反別拾四町弐反七畝八歩
     此わけ
    九町八反八畝弐拾七歩  田方
      壱反歩      永荒ニ引
     内
      九反七畝弐拾六歩 当枯穂一割引
   残而
   八町八反壱畝壱歩
    此米四拾弐石三斗九升四合七勺  坪ニ壱合六勺
   四町三反八畝拾壱歩      畑方
    此取米九石弐斗五合三勺  坪ニ七勺
 二口
   取米合五拾壱石六斗  高ニ四ツ三分
 
     外
   新田畑屋敷    度々改出
一 四町五反拾八歩
    此わけ
   壱町七反五畝拾六歩  田方
   内四畝拾五歩 [孫兵衛分大ひやうし九畝之所半分引]
   残壱町七反壱畝壱歩
    此取米六石壱斗五升七合  反ニ三斗六升
   弐町七反五畝弐歩    畑屋敷
    此取米壱石六斗五升  反ニ六升
 二口取米合七石八斗七合
 都合米五拾九石四斗七合
   表(俵)ニ〆百六拾九表ト二斗五升七合
右之通当巳之年貢、惣百姓高下これ無く割付、当十二月十日切ニ急度(きつと)皆済これあるべく候、已上、
 元祿弐年
   巳十月廿六日
                         清半右衛門印
                    下総国星久喜村
                      名主 源右衛門との(殿)
                    同断
                      同  彦兵衛との
                        惣百姓中
 右の元祿二年(一六八九)の星久喜村免状によると、この年は「当枯穂一割引」とあるごとく不作であったことがわかる。年貢率は田方・畑方分をあわせて、四三パーセントであったこと、田方一坪当たり一合六勺、畑方一坪当たり七勺であるとしるしている。これに対して「新田畑屋敷」分の年貢が七石八斗余あった事情も知られる。前述のごとくこのようなあらわれかたをもって、延宝年代の動向とストレートに比較することはできないが、本田畑の年貢率が延宝年代「四ツ弐分五厘取」=四二・五パーセントに対し、元祿の本田畑の年貢率が四三パーセントとなっているから、このかぎりにおいては元祿の方が年貢率が〇・五パーセント上昇しているといえる。
 右の例とても、残念ながら当該年次の皆済目録が見当たらないので、村方の対応のありかたが明確につかみがたい。ともあれ元祿二年という年は不作の年であり、領主も村方の作柄の状況にもとづき年貢を軽減している事実は明らかである。
 ともあれ、今後市域村々の年次別年貢納入の実態をこまかに調べてみる必要にせまられている。年貢の納入率の高低は農民の生活を直ちに左右するほど、農民にとって重大な意義を有していたのである。