第三項 自治組織の一端

29 ~ 33 / 492ページ
 江戸時代の村には、一般的にみて五人組という制度が普及し、各種の機能を果たしていた。五人組とは原則として農民を五軒ずつ組合わせ、年貢の納入や各種の村方に対する負担を共同で責任を負わせる下部単位であった。
 一面では五軒のグループが互いに助けあう慣行も多くみられた。したがって五人組は相互に監察しあい、農民に賦課される基本的な義務を遂行するとともに、一方では相互扶助の性格をもつものであったといえよう。
 故に、純粋な自治組織であったかどうかは別として、今日それが葬式の際の組と一致しているところもみられる。五人組制度は切支丹(きりしたん)禁制にも大きな力となったことはいうまでもない。

南生実村五人組帳の一節(明和9年)<宍倉健吉氏蔵>

 次にいくつかの実例をあげて、五人組帳のもつ意義、五人組の機能などを考えてみよう。
 まず生実藩(おゆみはん)(森川藩領)の村である南生実村の実例をあげてみよう。
 (表紙)
 「    明和九年
  [下総国千葉郡] 辰御改五人組下帳
      三月           南生実村」
      五人組前書之事

一、御公儀御法度之旨、御高札ならびに御触書之趣、何事によらず堅く相守り申し候事、

一、切支丹ならびに邪宗門御制禁之趣、毎年御改め仰付られ候通り堅く相守り、切支丹宗門の者これ有り候ハゞ早速申上げべく候事、

一、行衛たしかならざる者、昼夜ともニ少之内も留めおき申すまじく候、もしよんどころなき訳御座候て、他所之者を一夜も泊り申したき儀御座候ハゝ、申合せ、名主江申届け差図を請けべく候、組中ケ間(ママ)何事によらず不作法なる儀御座候ハゞ、相談仕り候て名主え申届け、組を除き申すべく候、若し隠しおき外より顕るにおゐては、その身は申上げるに及ばず、名主・組頭・五人組ともに何様の曲事(くせごと)にも仰せつけらるべく候事、

一、博奕ならびに三笠附、惣じて懸(ママ)之諸勝負曽て仕るまじく候、もし相背き候者御座候ハゝ当人は申上げるに及ばず、親類・名主・組頭・五人組之者まで何様の曲事(くせごと)にも仰せつけらるべく候、もし五人組仲ケ間博奕等仕り候者御座候はゞ早速名主え申達し、名主より申上げべく候事、


     〔中略〕
 

一、何事によらず徒党がましく儀仕るまじく候、もし徒党がましき儀御聞きに及ばれ候はば、何様之曲事(くせごと)にも仰せつけらるべく候、もっとも大勢人寄せがましき儀かつて仕るまじく候趣、日待(ひまち)等四五人も人寄せ仕り候ハゞ組頭江申達し、名主えその段相届け差図を請(う)けべく候、もし沙汰無く人寄せがましき儀仕り候段、是又御聞きに及ばれ候ハゞ、当人は申上げるに及ばず、五人組の者まで何様の曲事(くせごと)ニも仰せつけらるべく候事、

一、通り猟師宿、村中ニて堅く仕らせまじく候事、


右の通り常々互に吟味仕り堅く相守り申すべく候、もし相背く者御座候ハゞ何様之御仕置ニも仰せつけらるべく候、後日のため前書証文よつてくだんの如し、
 明和九辰年
              南生実村    組頭  与市
                      同   彦左衛門
                      同   喜右衛門
                      同   次右衛門
                      同   彦兵衛
                      同   平六
                      同   太郎右衛門
                      同   平左衛門
                      同   庄五郎
                      名主  小兵衛
   吉田元右衛門様
    〔五人組、拾九組連名略〕

右五人組、村中組合帳面之通り相違御座無く候、毎年仰せつけられ候通り常々油断なく吟味仕候、拙者共儀は右組合の内御除成され候、かくのごとくこの奥書証文連印仕り差上げ申候上は、私共儀は申上げるに及ばす、組合之儀につき少しも相違御座無く候、もし相背き候者御座候ハゞ、何様の曲事(くせごと)にも仰せつけらるべく候、そのため証文よつてくだんの如し、

一、先達て仰せつけられ手形差上げ申し候通り、鳥殺生の儀堅く仕るまじく候旨、村中え仰せつけられ畏れ奉り候、雲雀の儀は草苅候者子供に至るまで一切手をつけ申さず候様に常々申渡し、御鷹匠様方御越しの節随分大切に相守り、当村野耕地え御越し成され候節も、作場野山え罷出で候共、随分心をつけ御鷹障りに成されざる候様ニ仕るべく旨、仰せつけられ畏れ奉り候事、

一、兼て仰せつけられ候、若し宗旨替、旦那替申たき儀に候者これあり候ハゞ、先達て名主え申届け、差図を待ち候様に村中え急度(きつと)申渡し置き候、右願いの者名主え申出候ハゞ、先ず内証にて吟味を遂げ、よんどころなき訳御座候ハゞ、先ず窺い御下知次第に仕るべく旨仰せつけられ畏れ奉り候、窺い奉らず候て改宗寺替成りがたき旨、村中寺方えも申達すべく旨畏れ奉り候、もし吟味仕らず差図を請けず、改宗寺替候者これ有り候ハゞ、何様之曲事(くせごと)ニも仰せつけらるべく候事、


右の通り急度相守り申すべく候、もし相背き候ハゞ何様之曲事(くせごと)ニも仰せつけらるべく候、よつて証文くだんの如し、
             南生実村    組頭  与市 印
                     同   彦左衛門 印
                     同   喜右衛門 印
                     同   次右衛門 印
                     同   彦兵衛 印
                     同   太郎右衛門
                     同   平六
                     同   平左衛門
                     同   庄五郎
                     名主  小兵衛
    吉田元右衛門様
 まず前書の箇条書を整理すると、御公儀の御法度の厳守、切支丹ならびに邪宗門の制禁のための処置、すなわち切支丹宗門の者の密告の履行、行方知れざる者の宿泊禁止、博奕賭勝負の厳禁――不届者の申告履行、博奕の禁止、奉公人召抱の際の注意、鉄炮制禁、徒党の禁止、猟師宿の禁止などにふれている。そうして若しも背くものがあれば厳重の仕置に処するとのべている。
 なお、同村名主・組頭連名のあとがきによれば毎年村の五人組を確認し、年々仰せつけのとおり油断なく吟味を行う。自分達は五人組から除外されているので、ここにあらためて連印確認するとのべている。さらにあとがきの条々によれば、鳥殺生の禁についてのべ、ひばりの場合は子供であっても一切手を付けるなといっている。また宗旨替え、旦那替えをしたい者はかならず名主へ届を出し、その差図をうけるべきことを明記している。
 次に本帳によって、同村の五人組編成の一斑をのぞいてみよう。すなわち同村の五人組数は一九組あり構成人員別にみると六人ずつのグループが一八組、五人のグループが一組となっている。このなかには名主・組頭はふくまれていない。さらに僧侶二人と神主一人も対象外となっている。五人組の対象となっている一九組の構成を二、三紹介するとつぎのとおりである。
  本百姓家持       年四十五        平次郎
  弥右衛門聟       年四十八        清十郎
  水呑家持        年四十二        四郎右衛門
  本百姓家持       年四十七        四郎兵衛
  右同断         年五十五        伝七
  水呑女家持       年五十四        六右衛門女房
        〆六人
  本百姓家持       年五十一        七郎兵衛
  吉兵衛子        年三十四        吉郎兵衛
  与左衛門下男      年四十一        与八
  水呑家持        年四十八        久五郎
  由兵衛下男       年四十         次郎右衛門
  水呑女家持       年四十二        所右衛門後家
        〆六人
  本百姓家持       年五十八        次郎兵衛
  水呑家持        年三十         平四郎
  源左衛門下男      年四十五        甚左衛門
  本百姓家持       年二十七        新助
  甚右衛門子       歳十八         駒次郎
  水呑女家持       歳四十一        清右衛門女房
        〆六人
 以上三つのグループの構成からも知られるごとく、五人組の構成には階層的な配慮がはらわれている事実に注目する必要がある。というのは、たとえば本百姓のみで一グループを構成するというしくみを排除し、どのグループにも大体平均して本百姓、水呑の配置がなされている事実が看過できない。このことは裏がえしにいえば各グループのなかで相互に扶助しあい、かつ相互検察をするというたてまえから、特別の配慮が払われている証左といえよう。
 もっとも、さらにこまかい検証が必要であるが、このような構成ははたして向う三軒両隣方式によって、機械的にグループを編成するとは考えられないふしがある。すくなくとも、そのようなグループ単位の階層混合度合がほぼ等質的に人為的に配慮されている面を、無視することができないであろう。
 つぎに旗本領である薗生村の五人組帳をみてみよう。
   (表紙)
   「  萬延元年
       五人組改帳
      庚申七月日
                      薗生村」
      條々

一、今度相改候通り村中五人組之儀、町ハ家並、在々は向寄次第家五軒宛大小之百姓組合、地借・水呑迄組仕り申合せ、前々より度々仰せつけられ候公儀御法度之趣堅く相守り、子供下々迄諸事吟味仕り、自然不吟味ニて悪もの出来候ハゞ、組中急度越度ニ申付けべく候、若し申合を背く者これあるに於ては訴出べく事、

   附(つけた)り、何事によらす村中相談の上にて申合せべく事、

一、毎年宗門帳差出すべく候、若し御法度の宗門之者これあらば、早速申し出づべし、

  御高札之旨相守り、人別入念に相改め候事、
   附り、御高札若し破損候ハゞ早速申出べく、ならびに雨覆等損候節は、早々修復仕るべき事、

一、田畑ならびに山林等永代売買御停止(ごちようじ)に候、若し質物ニ入れ候ハゞ拾カ年限り質手形、名主・五人組加判仕るべく、田地ヲ質ニ取候者へ作らせ候て御諸役地主勤候儀は仕るべからざる事、

   附り、田地質物ニ書入候証文、名主・五人組判形これなき出入申出候共、取上げべからざる事、
 
     〔中略〕
 

一、常〻人之妨をなし、喧嘩口論ヲ好み、夜あるきを仕り、耕作不精ニ渡世の営おろそかにて、名主・五人組の異見ニ而も承引仕らざる者これあらば申来るべく、左様の不届者随分脇より相聞え候ハゞ、名主・五人組越度たるべく候事、


     〔中略〕
 
右は御ケ條書、村中大小の百姓残らず一々拝見奉り、急度相守り申すべく候、もし相背き候者これ有らばいかようの曲事ニも仰せつけらるべく候、そのため村中惣百姓水呑迄、壱人も残らず五人組相定め連判仕り差上げ申し候、以上、
                      五人組頭  弥兵衛 印
                            久右衛門
                            吉左衛門
                            勘兵衛
                            勘左衛門
                      五人組頭  庄左衛門 印
                            源右衛門
                            利左衛門
                            源六
                            伊右衛門
                            喜兵衛
                    〔後略〕
とあり、十組の五人組の連名がしるされている。

薗生村五人組帳の一節(万延元年,複写による)

 このように五人組は連帯責任がつよく強調されていたことがわかるとともに、五人組が相互に監察しあうという性格(五人組構成員相互の監察と、五人組対五人組という立場での監察の両面の意味をもっている。)をもっていたことを忘れてはならない。もともと五人組制度は切支丹(きりしたん)や叛逆者の捜索などの目的をもつ多分に警察的な制度であり、幕府の指示によって組合わされた制度に外ならないが、のちには相互扶助的な要素も持つようになったことが指摘できよう。