第四項 村明細帳に現れた生活の諸相

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 次に郷土の村の概況を、「村明細帳」「村差出帳」とかよばれる文書(もんじょ)によって、可能な範囲においてみてみよう。「村明細帳」とか「村差出帳」というのは、いまでいうならば、町村勢要覧のようなもので、村高がいくら、戸数がいくらからはじまって、御朱印地の有無、寺院、周囲の村名、田方の種蒔時期、村の生業から耕地の性質等にいたるまで、かなり記載が多岐にわたっているものがみられる。したがって江戸時代における村の大ざっぱな概況を知る上にとって、まことに便利なかきものである。
 しかし、一般的にみてその記載はまさしく精粗さまざまで、非常に詳細な記載のものがあるかとおもうと、きわめて簡単な記載内容のものもみられるというように、決して一様ではない。「村明細帳」や「村差出帳」とかよばれるかきものは、領主が替った場合新領主に差出すとか、あるいは幕府の巡見役人が村々を廻村した時とかに、村方から差出したものであろう。
 厳密にみれば「村鑑明細帳」と「村差出明細帳」とか「村明細帳」とよばれる差出帳は、区別されるべきであり、両者に性格のちがいがあることが指摘されている。石井良助博士によると「村明細帳は主として代官が交替するときに、各村より新代官に提出させるもので、高請地の面積、家数、人数、牛馬の数、男女の稼、助郷、堤川除、産物、林、野山牛飼場、江戸等大都会への道法(みちのり)、御朱印寺社、渡船、溜池等に関する記載をしている。ところで村明細帳と区別されるものに村鑑(むらかがみ)がある。両者は混同して考えられるが、実は別物だ」という。すなわち、「村鑑は享保二十一年(一七三六)に八代将軍吉宗の意向により、年々勘定所より御側衆に差出させることにしたもので、将軍が閲覧するというたてまえであった。つまり村方で作成して主として代官に提出する村明細帳とはちがい、村鑑帳は幕府御料の村々の様子を将軍の閲覧に備えるために代官が作るものであった」という。
 さて、郷土の村々のすべてに村明細帳は残っていないが、発見されているものに『享保十八年平川村明細帳』、『延享三年寒川村指出帳』、『延享三年川戸村差出帳』、『延享三年星久喜村差出帳』、『寛政五年薗生村明細帳』がある。いまこれらの史料によって右の村々の概況をわかりやすくまとめてみよう。

星久喜村御差出帳の一節(延享3年)<吉田公平氏蔵>

   平川村
 平川村は天正十九年(一五九一)小宮山八左衛門らにより検地が行われた。いわゆる太閤検地である。江戸時代では享保十一年(一七二六)に検地が行われた。村の本高は四〇石一斗八升で新田高が一四石ある。本田の石盛(こくもり)をみると、上田一一(一石一斗)・中田九・下田七・下々田五・上畑七・中畑五・下畑三で屋敷は石盛一〇(一石)である。
 平川村は用水は無く天水場である。天水を利用した溜池が一カ所あるのみである。家数は一一戸で人員は五一人(うち男二七、女二三、出家一人)である。村は宿場でもなく市場もない。草刈場は居村より西方に御料・私領入会(いりあい)の秣場(まぐさば)がある。御林(おはやし)はなく、百姓持山が二町七反あり、先規より野銭は上納していない。そだ山で下萱(したかや)は田畑のこやしに使用している。
 同村の土橋は四カ所のみである。米の津出場(つだしば)は浜野河岸で当村より二里半の位置にある。村にはにぎわいの場所もなく、古城跡もない。そのほか有名なものもない。村は全般に旱損場であるが、水損場はみられない。この書上は享保八年平川村の名主惣右衛門、年寄の市兵衛、百姓代庄左衛門の連名で代官伊奈半左衛門役所にあてた書上である。
   寒川村
 延享三年(一七四六)二月の同村指出帳によれば、同村高は四四九石四斗四合で、このうち八七石四斗一升三合は明暦元年(一六五五)堀田上野介支配時代の「御繩打出し高」である。更に五石二斗九升二合は元祿十二年(一六九九)戸田能登守時代、新田分が本高に組みこまれた石高である。
 田方はあわせて四二町九反六畝余でこの高は三三二石三斗七升余である。田方を等級別にみると上田七町八反余、中田八町七反余、下田一五町八反余、下々田(げげでん)一〇町四反余で下田の占める割合が一番多い。一方、畑方は屋敷五町四反余を加えて、あわせて二八町二反九畝余でこの高一一七石二升余である。等級別では上畑三町七反余、中畑四町八反余、下畑二町八反余、下々畑一一町三反余、屋敷五町四反余でこの中、下々畑の占める割合がもっとも高い。すなわち、田方では下田、畑方では下々畑にもっともウェイトがあるという実状は、同村の農業生産力のたかさをみる上に大きな指標となるであろう。なお田方と畑方の分布割合は前者が後者の約二倍近い分布となっていることも注意しなければならない。
 右の田方・畑方の年貢は現物納であるが、このほか「松山銭・百姓林」の貨幣納が若干ある。更に「御年貢大豆永壱貫文につき四斗掛御上納仕り候」や「胡麻二斗八升、但し御年貢永之内にて(中略)永弐百三拾三文三分御上納仕り候」とあるから、大豆や胡麻の貨幣納による小物成(こものなり)もあったことがわかる。
 ところで、年貢米一俵は四斗一升五合入れで、当村の御物成米、大豆は「寒川御蔵」へ納入するのがたてまえであった。そのほか高百石につき糠六俵(七斗五升入り)の納入や、繩の納入もあり、「御馬屋入草」も御用次第納入するとある。
 寒川村の家数は三三七戸で人数は一、七三二人であった。当村から佐倉まで道程五里、また船橋まで五里の位置にある。寺は真言宗光明院・真福寺、禅宗満蔵寺・海蔵寺の四カ寺である。神社は伊勢明神、白幡大明神、滝蔵権現の三社である。当社には五大力の百姓船が四〇艘ある。この内訳は百俵積船と九〇俵積船である。また押送船が二〇艘ある。そのほかに名主船が一艘ある。
 村内には松御林が一カ所あり、わた打山という。たて八五間、よこ五五間である。溜池は二カ所ある。悪水払の水門が一カ所あり長さ三間、よこ二尺、たて一尺である。堤は二カ所あり、一つは潮除堤で長さ一八〇間、高さ八尺、馬踏四尺である。残りの一カ所は往還堤で長さ二四間、馬踏三間である。ほかに用水堰水門二カ所、板洗井堰一カ所がある。板橋は二カ所あり、御高札場は村内に一カ所ある。御高札の枚数は八枚である。
 当寒川浦の漁猟運上金は四五両で、請負った者が毎年一月に半金、六月に残りの半金を領主に納入するたてまえになっている。もっとも、松平左近将監様の時代は年々まったく無猟であったので、特にお願いをし網二丈に御運上金一六両として請負い、十一月中に上納した。御浦請負人は同村の源兵衛である。ところで、当浦のみよ普請(ふしん)の節は、佐倉から役人が出張し工事の人足は津出しの村々より出すきまりとなっている。一方往還道筋の普請の場合は村方のみでは困難な節は、特に嘆願し郡中から人足を徴発して普請にあたっている。
 当村にある御蔵屋舗(おくらやしき)はたて五七間、よこ三五間あり御蔵は五棟ある。このうち一棟は潰蔵である。これは松平左近将堅様時代に潰蔵になったという。
   川戸村
 村高は一七五石で、新田畑の高は七石三斗七升二合ある。戸数は一九戸で名主一戸、本百姓一四戸、借地百姓四戸から成っている。寺は一カ寺あり、禅宗の福寿院で、印旛郡臼井宗徳寺末寺である。宮は大宮権現、大六天宮、諏訪明神がある。大宮権現の社内は長さ一二間、よこ八間、この反別三畝二〇歩である。大六天宮社内は長さ一五間、よこ一三間、反別六畝歩である。諏訪明神の社内は長さ四間、よこ二間で反別八歩である。一方福寿院の屋敷は長さ三二間、よこ二六間この反別二反七畝二七歩である。また同院支配の薬師堂地は長さ三八間、よこ二二間この反別二反七畝二六歩である。
 村内には堰が二カ所あり、境川が一カ所ある。これは坂尾村・川戸村のさかい川である。溜池は二カ所ある。橋は村内に二カ所あり、うち一カ所は坂尾村・川戸村の堺橋である。
 当村から佐倉まで道程は四里半である。御年貢は江戸廻しで船賃は「差出し申さず候」とある。さて前述のごとく当村の戸数は一九戸であるが人数はあわせて一二八人である。そのうち男六三人、女六一人、僧一人で馬は一八匹いる。
   星久喜村
 村高は二六七石七斗五升で、この反別は三一町五反七畝四歩である。この内訳は田方二三町九反余、畑方七町六反五畝一五歩で田方面積が圧倒的である。ほかに新田高が三三石九升三合あり、この反別は八町三反余である。
 村内には溜井が五カ所ある。面積のもっとも大きいのは、かぢやの四反六畝歩で、これにつぐものは二反一畝と一反四畝歩のものがある。これらの普請の節は領主より人足を心配してくれる。橋は一カ所で仁戸名村と星久喜村の立合でかけた橋である。長さは九尺、横六尺の大きさである。普請の時は領主から材木等をたまわるのが通例となっている。御林は一カ所ある。面積は四町五反二畝歩あり、下草は領主より百姓に放出される。
 同村には天台宗星久山千手院という寺が一カ寺ある。この寺は千葉郡坂尾村栄福寺の末寺である。寺院境内は一反四畝あり、前々から無年貢地となっている。同院支配の除地にはびやくびの田一反歩、松ノ木台の畑七畝歩、弥陀堂屋敷地一畝歩、地蔵堂屋敷二畝二〇歩がある。神社は三上大明神という一社があり、五尺四面で村中支配となっている。宮の境内は七反九畝一〇歩で前々より御除地で村中支配である。
 当村には本年貢のほかに山金一両一分永二百文、享保十一年よりの立合山銭鐚(びた)三三二文、享保十六年よりの野銭、二五〇文などの雑年貢貨幣納があり、ほかに夫役金として永八〇三文三分がある。
   薗生村
 寛政五年(一七九三)七月十六日の同村明細帳によれば、薗生村の村高は三九三石四斗五升九合、この反別四〇町九反九畝八歩である。このうち田二三町一反三畝一三歩、畑一七町八反五畝二五歩で、畑方に比して田方の分布にウエイトがある。領主は旗本の山名小治郎である。
 田方・畑方別の等級をみると上田四町六反余、中田六町七反余、下田九町七反余、下々田一町九反余で、下田がもっとも多い。一方畑方の場合は上畑三町四反余、中畑二町二反余、下畑四町三反余、下々畑八町四畝余で下々畑にもっともウエイトがある。
 さて同村の戸数は五〇戸で人別は二四七人、うち男一二八、女一一九人である。村内の馬飼育数は二七匹であるが、その使途は必ずしも明白ではない。
 この村の農業生産力の状況は前述の等級別耕地の分布度合によく示されているが、灌漑の便は悪く「天水場」であり、「村柄困窮ニ御座候」としるしている。ただ薗生村の場合注目されるのは、地頭林一五町二反七畝一一歩の分布に対して百姓林が六八町八畝二一歩ある。この百姓林を個々の百姓がどのように分割保有していたかに興味があるが、何らかのかたちで同村農民の生活手段の一つとしてこの山の利用ということが、彼らにとって、大きな関心事であったろうと推察される。というのは、本帳の記載に「農業之間薪商売仕り候」とあるから、大なり小なり農民は、この山に依存した生活を送っていたろうことは十二分に推察されよう。なお同村の秣場は「野拾四町二反弐拾四歩」とあるから百姓林とは別に百姓の刈敷源である秣場は別に保有していた事情も看過できない。
 さて、同村は江戸まで九里ほどの位置にあるが、年貢米は近くの検見川村へ津出しする。検見川までの距離は一里である。同村には真言宗の寺院が一カ寺ある。
 最後に同村の種籾の使用量は田方一反につき種籾二斗三升、畑方一反につき麦種一斗八升ほど使用する。田畑の施肥は馬の踏草の投入が主であると記している。

薗生村の村絵図(明治元年、田畑と秣野、林等の分布のありさまがわかる)<吉田公平氏蔵>

 以上は残存する明細帳類によって、数カ村の動向を概観するにとどまった。千葉市域における明細帳類の史料発見は全域的にみるときわめて少い状況にあるといわねばならない。今後ともかかる明細帳類の発見につとめる必要がある。
 はじめにのべたごとく、明細帳類は江戸時代における当該村々の動向を手っ取り早くつかみ、さらにこまかく村落の動向等をしらべる際の手引となるものである。その記載は精粗さまざまではあるけれども、それぞれの記載をたがいにつなぎあわせ考察すると、研究の大切な糸口をかなり的確にとらえることができるであろう。