1 宇那谷村と長沼新田の争論

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 天保六年(一八三五)五月に、宇那谷村小前四八人総代の次郎左衛門・惣左衛門・勘右衛門の三人が、長沼新田名主・市兵衛ら村役人四人と宇那谷村名主・四郎右衛門ら村役人四人を相手取って、訴訟を起こした。その主張によると、
 「宇那谷村では、今まで当村が管理している字(あざ)長沼池をもって、二三町歩の田地に水を供給してきた。長沼池の西側の野は、寛文年間に江戸町人が新開を企て、新田取り立てとなり、長沼新田となったが、その際池まで新開になるところを、当村の用水に差支えるということから、その計画は中止になった。
 また宝暦十年(一七六〇)に、上総国借毛村、重左衛門が新開を願いでたが、村の用水がなくなるため、代官から当村用水との仰せがあった。明和二年(一七六五)にも、新開免除を願い出て許可になり、更に安永元年(一七七二)には、沼に土手を築いて、約一町歩の場所が、当村の用水になっている。
 天明三年(一七八三)にも新開を仰せつけられたが、当村が旱損場で水が不足すると申しあげたところ、池の半分は新開、半分は当村の用水にするようにとのことであった。
 小前の百姓たちが、一町歩の用水でも足りないので、これまでどおりにしてくれるよう懸け合いになったところ、名主などの村役は、公儀の利益になるものを、小前の者共が差支えるなどというのは不当だと、役威をもって申したてている。これは、村役人たちが長沼新田と馴れ合って、年貢をとって押領するたくらみに相違ない。
 この沼池が新開された場合、大雨の時は、六方野から流水が流れ込み、当村の田地が一面に冠水するだけでなく、流末の村々にも被害が及ぶことになる。現在約六町六反歩ある池がつぶされては、田の植付けにも困る。
 以上のようなことから長沼池の新開発をやめて、そのままにしてもらいたい」との訴えであった。この訴訟によれば、長沼池が江戸中期以降しばしば新開の対象になっていたことがわかる。
 これに対して、宇那谷村々役人は次のような答弁をしている。
 「天保五年六月に、代官手代の御役人が、当村の新畑調査に来た際に、長沼新田役人と、私共が案内したがその帰り道に、御役人から、宇那谷村で勝手に堰(せき)の落口を止めると、長沼新田の新開場と畑に水がかかるので、宮野木村への堀割へ、悪水を落すようにいわれた。そうなると宇那谷村が困るだろうから、両村役人が相談して、今晩中に、両村が困らないような案をつくるよう命ぜられた。長沼新田村役人の提案では、沼の下の部分を一町歩程、宇那谷村用水にきめて、長さ二百間、横八〇間で土手を築き、悪水は土手の外に流し、沼の上を新開にしたらとのことであった。急いで返事を迫られ、村中に相談もできずに、その案のとおりに取りきめたところ、村に帰って、多くの村人から、一言の相談もなく利欲に迷ったなどといわれ、訴えられた。自分たちは新役であり、昔の慣習もよくわからず、全部新開されるよりは、用水が確保できると思ったから承諾したのである。」
 こうみてくると、この問題は、用水を契機にした、村方騒動の様相をみせているか、一方、同時に訴えられた長沼新田村役人の主張は、長沼池の管理について、宇那谷村とは、全く相反した主張をしている。その主張は、次のようなものである。
 「当村は、延宝四年(一六七六)に高入れをうけ、検地に際しても、当新田地内の長沼の名をとり、長沼新田と唱えるようにといわれ、鎮守を勧請して村になったものである。明和年間にも、宇那谷村の者は、心得違いをして、長沼池を同村のものと申したてその結果詑状(わびじょう)を一札当村へとったこともある。昔からの裁決の裏書きや、村境の牓示(ぼうじ)にも、宇那谷村の主張は反している」このように長沼池の所有を主張した。
 この両村の争論は、天保七年まで、約二年間続いた。そして同年五月十三日付けで、次のような示談が成立した。

「一、長沼池については、今度調査したところ、寛文十二年(一六七二)の杭・牓示塚(ぼうじづか)・絵図面のとおり長沼新田の管理地に相違ないことを確認した。

 二、開発については、沼の北方、西縁より東縁を見通し、南の部分を地元村で新開する。

 三、宇那谷村の用水は、沼の北の部分を用水として、長沼新田側が保障する。

 四、宇那谷村用水堀の為の土手普請(ふしん)は、宇那谷村で七分、長沼新田が三分の割で普請する。もっともこの土手は、新開に障りのないようにつくり、土手の破損は、宇那谷村で修覆する。

 五、長沼新田からの排水溝をつくり初春に溝浚(みぞさら)いをする。宇那谷村では溝筋をとめない。

 六、宇那谷村用水入口は、新らしく用水路をつくり、用水堀は、従来のものを用いる。土地が高くうまく流れない場合は、長沼新田村役人と相談する。」


 この争論は、宇那谷村にとって、唯一の用水源であった長沼池を、埋めたてて、新田開発を行おうとした長沼新田と、宇那谷村の間で用水争論に発展したものである。この経過のなかで、領主側も、新田開発を進める意図をみせており、池を用水源とする宇那谷村とは、利害が対立していた。結局両村の主張をいれるかたちの解決方法で、示談が成立した。
 また宇那谷村では、天保十二年(一八四一)に、「当村は、他領との境にある村であるために、水場境論が、これまでたびたびあったが、これらにかかる諸雑費は、平均四分を高割にし、六分を惣高懸りにする。」という規定を、村内取決めというかたちでつくり、村内一同で、こうした問題に対処する態勢をつくっている(『宇那谷村文書』)。