2 南生実村と北生実村の争論

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 文化八年(一八一一)五月に起こった両村の争論は、北生実村側からの訴えにより始まった。
 北生実村の主張は、「昔から、生実村は、北と南に分かれていても、田畑は入り組み、一村同様の村である。北生実村は、旱魃(かんばつ)の村柄であり、南生実村泉谷(いづみやつ)の出水をもらってきたが、近年は、南生実村が水をくれずに困っている。
 最近では、南生実村側では、今まで水をやった覚えはないなどと不実を申しのべている。そして北生実側では、草刈堰(くさかりぜき)の水を引いたあと、泉谷の水を六日間もらいたい」との訴状である。
 これに対して、南生実村の主張は、「泉谷の水は、量が少なく、また下郷と南生実村の用水である。日照り、渇水の場合には、自村の田にも水が行き届かない状況で、一村同様といっても、他の土地を助けて、村内の田地を渇水にするわけにはゆかない。安永年間には、大百池(おうどいけ)、養池の田地内へ溜水をして、そのために年に四俵宛年貢から引いてもらっている現状では、水をやることはむずかしい。
 最近では、村内でも水不足と騒いでおり、北生実村へ水をやっては、南生実村の内部で騒動の起こる原因になってしまう。南生実村では、有る水をやらないのではなく、無い水をやれないといっているのである」自村の水不足に、やむをえず、今まで提供していた水を中止することを主張した。
 この争論については、次のような内済取決めがなされた。

一、草刈堰の番水は、日数七日間を北生実村で引き取り、その後一一日間は、村田村、浜野村、古市場村、高島村(現在の古市場町)で引きとる。

二、北生実村は、この一一日間は、堰水を引くことができないので、この水不足について、南生実村泉谷の水をもらいたいと申し入れてきたが、これまでのよしみにより、明番一一日のうち、五日目から三日間、昼夜とも泉谷の水を与える。もっとも南生実村が渇水の場合には、水をやる必要はない。

三、これまで泉谷の水は、定水として、北生実村へ与えたが、今後は定水としてではなく、日数は、南生実村の判断にまかせて与える

四、草刈堰の水を、北生実村が引き取るときに、途中の水路にあたっている南生実村の者は、水の流れが良いように心がけ、水の流れの悪い場所をそのままに見捨ておかず、また水を途中でとらない。

五、下郷、南生実村で、境川の水をとり、南生実村に送る際、草刈堰の水が北生実村に流れているときは水路が一緒になるので、百亀喜(どうみき)で分水をするが、南・北の両村から村役人立会いで分水をする。


 結局それまでの慣習もあり、南生実村でも、泉谷の水を一定期間与えることで解決をみているが、用水堀の管理、堰水の番水などは、明確な規定が存在したのである。
 この争論にでてきた泉谷の水に関連して、さかのぼって、元祿十五年(一七〇二)に、古市場村と、椎名村、南生実村の間で争論があった。