古市場村の主張によると、「泉谷に出水場所が数カ所あり、境川に流れて、その水を古市場村、浜野村、村田村の三カ村が、水下でこれを利用してきた。ところが椎名村の者が勝手に水番をつけたため、水がこなくなった」、という主張である。
一方、椎名村、南小弓(生実)村両村では、「泉谷の出水は、前々から両村の水元であり、古市場村の溝筋は一切無い」というものであった。
役人が調査した結果、「泉谷の出水は、椎名、南小弓両村の水元にまちがいない。境川から水を引くというが、椎名村前の耕地までは水道(みずみち)があるが、田越えの溝筋であり、草刈堰水道に続いており、境川の水道は一切みえない。浜野村、村田村にきいても境川の水を引いたということはない。しかし古市場村は、旱損の村であり今後は、中橋で、浜野、村田村の水道に胴木(どうぎ)をふせて、田越えの余水を古市場で使用する」という内容であった。
この裁許状では、椎名村・南生実村の主張が認められたかたちで解決をみているが、泉谷の水は、近世初期から用水として利用されていたわけである。そしてこの年の裁許状と絵図は、その後長く南生実村と、椎名村に保管されていた。この水論絵図は、一年ごとに両村で保管され、毎年三月二十七日に引き渡しが行われた。文化十三年(一八一六)三月二十七日にも、「当子三月二十七日に南生実村預るところ実正なり、来る丑三月廿七日には、椎名村へ急度(きつと)あい渡し申すべく候」と年番預り証文が書かれている。
また水路についても、元祿裁許図にかかれているもののほかは認めず、「ありきたり候水道(みずみち)の他、新法なる義つかまつる間敷(まじく)」とし、新規の用水路は禁止している(『千葉県史料』近世篇、下総国下四七~五〇ページ)。
文政五年(一八二二)四月に、印旛郡勝田村が、宇那谷村、上志津村を相手取った用水論争の中で、「勝田村、宇那谷村用水は、両村で等分に分水をしてきた。用水堀は六尺程あり、勝田村で普請をしてきたが、四月に杭木がうちたてられ、割竹やしがらみ(杭をうち木の枝、竹を横にしたもの)が敷いてあり、宇那谷村役人にかけ合ったところ、同村の水が不足しているので、差しとめたと不法を申している。」として訴えている。これも用水慣行に違反した行為として訴えられたものである。