文化十年(一八一三)三月に、印旛郡下志津村、小名木村、中台村、中野村、和田村、南波左間村、成山村、上野村、千葉郡加曽利村、辺田村、貝塚村の一一カ村から、六方野開発請負人の彦右衛門に対しての訴状が出された。川野辺新田の新開を請負った寺内村彦右衛門が、計画以上の土地を開発しようとしているとの訴状である。それによると、
「六方野秣場は、中台村、成山村、上野村、南波左間村、和田村、中野村の六カ村入会(いりあい)で四五町歩、下志津村は七二町歩、加曽利村は八九町歩、辺田村、貝塚村については、広さは検地に及ばない旨のきまりであり、その後貝塚村は三九町歩を管理してきた。そして残りの面積は検見川村外一三カ村の入会である。寛政九年(一七九七)に、新開予定が出されたとき、検見川村・畑村・坊辺田村・天戸村・東寺山村の五カ村は、他に秣場をもっているために、開発は差し支えない旨を答えた。
一方宇那谷村・小名木村・和良比村・犢橋村・稲毛村・小仲台村・薗生村・殿台村の八カ村は、他に秣場がなく新開をされては、村の生活が成りたたないと申したてていた。
そこで、六方野七五三町六反歩のうち、二五〇町歩余は、境界をきめて、犢橋村ほか五カ村の秣場になり、四四町七反歩余を、小名木村、和良比村の秣場とした。そして残り五〇三町六反歩余を、享和三年(一八〇三)に、葛飾郡寺内村の彦右衛門らに、新開地として開発させたのである。
ところが、彦右衛門は、下志津村ほか五カ村の秣場内へ、天保七年に新らしい境塚をたてて、この新塚を新開発地の境界と主張している。また小名木村地内にも入りこんで新開を企てようとしている」との訴状である。
これに対して彦右衛門の主張は、「六方野の地境は、寛文年間に江戸町人が開発願を出した時に調査が行われ、その絵図が小名木村、長沼新田にも残っている。川野辺新田の新開を請負ってからも、新開予定地内で草刈りをさせ、古境を改めようと、一一カ村側にたびたび申し込んでも取り合わないので、古い境にならい新塚杭木を建てたのである。小名木村のいう場所も、川野辺新田のうちで字三ツ谷といっている場所である。新田場で、人が少ないのにことよせて、種々の論難を申しかけている点は、心得難い。」との主張であった。
この争論の結末は、下志津村ほか一一カ村の訴えについては、相手彦右衛門が、六方野新開を引きうけた際に、境界をはっきりと見届けなかったためであるとし、また小名木村との争論も、彦右衛門が境界線を心得違いしていたためとの内済が行われ、秣場所有の村々の主張が認められた(『宇那谷文書』「六方野新開地元付方江引請証文」文化六年六月)。
六方野開発をめぐる争論は、更に安政五年(一八五八)にも起こった。