安政五年二月に、宇那谷村・和良比村・小名本村名主から六方野新開について反対の請願がなされた。それによると、「六方野は、一三カ村入会秣場であるが、先に川野辺新田と、小深新田の開発が続き、残りの秣場面積が、二五〇町歩と減少してしまった。
ところが、実籾(みもみ)村名主、太郎左衛門と、作草部村名主、金蔵の両名が、新開願を出して、近く代官所から見分(けんぶん)にくるといわれ驚いている。
この秣場を更に新開するのは、一三カ村にとって大変困る」という訴えであった。
この一三カ村とは、宇那谷村、和良比村、小名木村、天戸村、畑村、検見川村、犢橋(こてはし)村、小中台村、薗生村、東寺山村、殿台(とのだい)村、稲毛村、坊辺田村である。
しかし、同年四月に、現地調査が行われると、これらの村々からは、「絶対反対の方針ではなく、できたら今までどおり秣場にして欲しいが、御公儀の利益も考えなければならないので、どうしても新開が必要なら、今まで入会組合の村々に、高請けさせて欲しい」との願書が出された。ただし一三カ村のうち、稲毛村だけは、あくまで新開に反対し、「今まで納めてきた野永(秣場にかかる上納銭)を、一反歩につき、二分増しで納入するので、従来どおり、一三カ村の入会秣場にして欲しい」との主張をしている。その後、この件についてどうなったのか明らかでないが、明治三年の記録によると、「一三カ村入会で、二五〇町歩の秣を刈取ってきたが、ときどき開発願人がでてきて、お互いに迷惑している。今後は、お互いの中からそのようなことをしない。万一この規約を破ったら、入会から排除をしてもかまわない。」との誓約がなされており、一応一三カ村の秣場として残り、開発がなされなかったものと思われる。