2 穴川野地をめぐる争論

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 寛文九年(一六六九)三月に、千葉村・寒川村・登戸村・黒砂村四カ村と、小中台村・薗生村・稲毛村三カ村との間に穴川野地をめぐっての争論が起こった。事件の発端は、小中台村の伝十郎が、前年の七月に草を刈っていたところ、千葉村の長三郎が見とがめ、鎌を取りあげようとし、逆に傷を負わされたということにあった。この訴状で、四カ村側は、小中台村等三カ村側が、昔から穴川野地が入会であると申したてているのは、全くの偽りで、ひそかに押領するたくらみであるときめつけている。
 この争論の結果によると、両者の主張は、それぞれ不分明であるとし、結局新しい野境をたて、二つのグループの境界をきめて、解決がはかられた。なお千葉町分には、大日寺・来迎寺・妙見寺の三カ寺領分の人々もこの秣場を利用していた。
 こうした原野についても、領主は積極的に年貢取りたてを行った。享保十一年(一七二六)に、佐倉藩役所では、四カ村に対してこの地の野地運上納を願い出るよう指示している。享保十五年に、野銭三五貫文の納入が決まり、その内訳は、全額の半分を千葉村、四分の一を寒川村、八分の一を登戸村、八分の一を黒砂村で負担することになった。
 更に寛保二年(一七四二)になると高請けになり、一七五町歩を二六二石五斗、永十貫五百文ときめられ、四カ村で分担して納入している。
 この秣永徴収も享保期の年貢増徴策の一環にほかならなかった。