天明三年(一七八三)四月に起こった争論で、高田村の者が、水砂野で秣を刈取っているとき鎌をとりあげられたことから訴えたのである。
高田村の主張は、「字水砂野は、中央の道を境に、西は平山村、東は高田村分と分かれており、西側の部分も入会秣場であるのに、平山村側がそれを否定している」ということにあった。
これに対して平山村の主張は、「水砂野一円は、元祿年間から、同領の北生実村とは入会であるが、東の部分が高田村のものであったことはもちろん、これまでに、高田村が入会であったことは一度もない。」と平山村の入会を全面的に否定した。
北生実村も、高田村の入会を認めなかったが、絵図面、代官手代の調査にかかわらず、なかなか事実がはっきりしなかった。
高田村の主張の根拠の一つは、寛永年間に起こった。高根村と川井村ほか二カ村の争論の裁許状に、「高田村は平山村の野へ入り来たりしているので」という記載がある点を証拠としていた。
調査の結果、水砂野は一円平山村のものと認められ、高田村は、十文字野への入会になっているからとして、その後の水砂野への立ち入りが禁止された。北生実村の入会はこれまでどおりとなり、高田村の入会は認められなかったのである。